リベラルアーツの扉:海外教養書を読む

田楽心&青野浩による読書記録

エイドリアン・ウールドリッジ 著『才能の貴族 ―― いかにしてメリトクラシー(能力主義)は理不尽で古い社会を打倒し、現代世界を作り上げたか』(2021年)/70点

紹介(評者・田楽心 Den Gakushin)

 近年、「メリトクラシー能力主義)」への新たな批判が提起されている*1メリトクラシー meritocracyとは、「教育制度として『英才教育制度、成績第一主義教育』、社会形態として『能力(実力)主義社会、効率主義社会、エリート社会』、政治形態として『エリート階級による支配、エリート政治』、主義・原理として『効率主義、能力主義、エリート支配原理』」*2などを意味する言葉だ。

 昨年ヒットしたマイケル・サンデル著『実力も運のうち 能力主義は正義か』*3は、メリトクラシー批判をテーマとしている。同書でサンデルは不正な手段で子どもを一流大学に入学させる親の事件や、裕福な家庭の出身者が一流大学に入りがちであることを取り上げて問題視する。このためサンデルのメリトクラシー批判のポイントが、こうした「公平な競争と見せかけて、実は公平な競争ではない」点にあると誤解しやすい。しかしサンデルが最も言わんとすることは、能力の優劣が社会的地位の優劣を決めるメリトクラシーは、それが理想的に実現できても不完全にしか実現できなくても、いずれにしても人と人との間にある共感を蝕み、格差意識を強め、共同体意識をずたずたにするという点にある。

 サンデルは、こうしたメリトクラシーの問題がコロナ禍で顕在化したと見る。『実力も運のうち』の冒頭では、「この国はパンデミックに対して道徳的な面でも備えが足りなかった」*4と指摘して、コロナ禍を格差および社会的分断と結びつけて論じている。サンデルが言うように、GAFAと呼ばれる先進テック企業はコロナ禍で売上高と最終利益が過去最高を記録した*5。つい先日も「世界の富豪上位10人、コロナ禍で資産倍増」*6と報じられ、その中には巨大テック企業の創業者たちが名を連ねた。ニューヨークのダウ平均株価も日経平均も大きく値上がりした。先進企業ではリモートワーク化が進み、一部の人々にとっては以前よりも快適で、他の人々より相対的に安全で、物理的にも階級的にも「距離を取った」ライフスタイルが生まれた。

 対照的に、世界中で多くの人々がソーシャルディスタンス政策によって、減収や失業の憂き目に遭うか、危険な現場で働き続けざるを得なくなった。また前線で働く医療従事者への公的支援も十分ではなかった。こうした境遇の格差を放置することへの違和感を意識した人々もいるだろう。

 他方では次のような見方も有力だ。エッセンシャルワーカーになるのも、高校を出てすぐ働くのも、エリート大学に入るのも、IT企業や金融業界で働くのも、人それぞれの選択に過ぎない。したがって健康に危険があるのも報酬が低いのも、個人の自己責任である。能力があり努力する者と、そうでない者との間に格差が生まれるのは自然なことだ。不正なことではない。

 むろん、このように格差を正当化し連帯意識を蝕む思考の原理こそ、サンデルが「メリトクラシー能力主義)」と名指しで批判したものだ。

 このようなご時世に、メリトクラシーを擁護する著書『才能の貴族 The Aristocracy of Talent』が出版された。オックスフォード大学の哲学博士号を持ち、英「エコノミスト」誌のワシントン支局長を務めた経歴を持つエイドリアン・ウールドリッジの著作だ。なぜ「逆張り」を行う必要があるのだろう。それは、ウールリッジに言わせれば、メリトクラシーが我々の暮らす近現代世界を形成した根本原理だからだ。ウールドリッジの考えでは、メリトクラシーが近現代の根本原理となった由来をよく知らずラディカルな否定を行えば、これより大きな害悪を招き寄せてしまう危険がある。このためメリトクラシーの歴史を辿りなおし、その功罪を踏まえて議論する必要があるという。

 原著のハードカバーで504頁の本書は、確かにメリトクラシーの歴史からその長所と短所を知るのにふさわしいボリュームがある(『実力も運のうち』原著は272頁)。以下ではいつものように、評者がウールドリッジに憑依したつもりで『才能の貴族』を補足しつつ要約し、最後に評価を行う。

f:id:liberalartsblog:20220126092234p:plain

Amazon | The Aristocracy of Talent: How Meritocracy Made the Modern World | Wooldridge, Adrian | Poverty

原題

The Aristocracy of Talent: How Meritocracy Made the Modern World /出版社:Allen Lane 2021年6月

著者について

エイドリアン・ウールドリッジ(Adrian Wooldridge):ジャーナリスト。オックスフォード大学で近代史を学び、成績優秀者特別奨学金 prize fellowshipを得て1985年哲学の博士号を取得。その後は経済ジャーナリストとして活躍し、2009年まで英「エコノミスト」のワシントン支局長を務める。日本では共著で『株式会社』 (ランダムハウス講談社 2006年)、『英「エコノミスト」編集長の直言 増税よりも先に「国と政府」をスリムにすれば?』(講談社 2015年)といった邦訳書がある。なおコロナ禍で生産性が上がり、2冊の本を出版できたと語っている*7

Twitter:@adwooldridge

はじめに 革命的なアイデア

f:id:liberalartsblog:20220126162514p:plain*8

 「はじめに」でウールドリッジは、「メリトクラシー」に対する現代政治における賛否両論の声を取り上げる。その上で「メリトクラシー」を適切に評価するには、その歴史的発展を知る必要があると提案する。

 1958年にイギリスの社会学マイケル・ヤングが自著『メリトクラシーの隆盛 The Rise of the Meritocracy』で批判的に名付けた「メリトクラシー(Meritocracy)」*9という言葉は、前近代から現代までの間に世界中に広く行き渡った一つのアイデアを表している*10。ヤングは同書で、IQの高い人間が社会を支配する架空の近未来を描くことで、メリトクラシーを風刺した。ヤングが属する左派の人々が当時メリトクラシーを好意的に受け入れていたことへの反発が、作品執筆の背景にある。「メリトクラシー」が浸透した社会は4つの特徴を備えている。第一に、人々は生まれもった才能を生かし、人生を発展させることに誇りを抱く。第二に、すべての人々に教育を提供し、機会の平等を保障しようとする。第三に、人種や性別その他無関係な特徴による差別を禁じる。第四に、職を与える際は、コネや身内びいきではなく、開かれた競争を通じた選別を行う。

 イデオロギーや文化や政治の壁を超えるメリトクラシー思想の成功は顕著だ。ここ数十年で最も成功した政治家たちは、保守政党でもリベラル政党でも中国共産党でも、メリトクラシーを掲げ擁護している。例えば民主党ビル・クリントンは、「すべてのアメリカ人は、神より賜りし才覚と己の意志が許す限り、どこまでも向上する権利があるのみならず、厳粛な責任を負っているのです」と国民を鼓舞し、バラク・オバマもこれに倣った。習近平は2017年の中国共産党全国代表大会の演説で、「社会的背景とは無関係に、能力 meritに基づき」幹部を選ぶよう求めた。

 世論調査では、大多数がメリトクラシーの原則への侵害に対し鋭く反対することが繰り返し示されている。人種的マイノリティ・グループの人々もメリトクラシーを支持している。2019年に行われたピュー・リサーチセンターの世論調査では、アフリカ系アメリカ人の62%が、大学は学生の入学選考で、人種や民族への考慮を控えるべきだと回答した。アメリカ人全体を対象とした調査では73%だからかなりの高支持率だ。

 学歴と稼ぎは密接に関連する。知的能力に優れていたり、親による教育への投資によって学位を獲得できた野心家が、富を手にする時代になった。1990年代のロシア最大のオリガルヒ(新興財閥)の7人のうち6人は、数学、物理、金融の学位を取得したのち、大富豪となっている。子どもの知性は将来の成功を予測する最も優れた因子のひとつだ。社会移動の研究者ピーター・サンダースは、10歳時のIQテストの成績は、両親の社会階級を手がかりとするより3倍も上手く、子供の社会階級を予測すると言う。

 他方でメリトクラシーを批判する声は、イェール大学のダニエル・マルコヴィッツや、ハーバード大学マイケル・サンデルのようなエリート大学所属の学者から、怒れる保守ポピュリストまで、様々な場所から聞こえてくる。

 大学で教えられる「批判的人種理論 Critical race theory」の理論家によれば、メリトクラシーは社会的不平等を自然な差異であるかのように受け入れさせる悪しき理論だ。批判的人種理論家にとって各種テストは合法的装いのもと、黒人を排除するための効果的人種差別政策に過ぎない。

 保守ポピュリストによると、アメリカをイラク戦争の泥沼に引きずり込み、金融危機を引き起こしたのは、傲慢な知的エリートたちである。またメリトクラシーは、富を築いたのはもっぱら自らの才覚と努力のおかげだとの自惚れを膨れ上がらせ、同胞への共感を鈍らせる。

 今見てきた批判にはどれも真実がある。メリトクラシーの建前はしばしば、現実の階級的特権の不当さや人種差別を隠ぺいし、不適切なエリート支配を正当化する。しかし「近現代」の中心思想であるメリトクラシーに対する批判は、慎重でなくてはならない。トランプ大統領縁故主義や専門家への体系的な中傷によって、メリトクラシーの原則をお払い箱にしたが、現れたのは悪政だった。

 メリトクラシーに関する議論は、歴史的視野が欠けていることで視野狭窄となっている。またメリトクラシーに関する手頃な歴史書は乏しい。そこで本書はこれからメリトクラシーの歴史を描いていく。歴史からは次の三つの教訓が得られる。第一に、メリトクラシーは不公平で非効率的な貴族支配を吹き飛ばし、女性や労働者など、虐げられた人に味方した解放の思想だということ。第二に、メリトクラシーの定義は歴史的に変化するため、その変化の持つ社会的意義を捉えなくてはならないということ。第三に、メリトクラシーは堕落した時代もあったが、自己改革ができる思想でもあるということ。本書のタイトルを「才能の貴族(The Aristocracy of Talent)」と名付けた理由の一つは、「才能」と「貴族制度」との間にある緊張関係を協調し、現代におけるメリトクラシーの堕落に警告したいからだ。

第一部 優先順位、序列、地位

f:id:liberalartsblog:20220126095855p:plain*11

 第一部では、メリトクラシー以前のヨーロッパ社会を紹介する。ウールドリッジがヨーロッパに焦点を合わせるのは、世界で初めて、身分制度や年長者の優位が包括的に見直しの対象となった社会であるためだ。この部の狙いは、いかに身分制社会が窮屈で、自由や可能性の小さな社会であったのかを読者によく知って貰うことにあるだろう。

 シェイクスピアは『トロイラスとクレシダ Troilus and Cressida』(1609)の中でメリトクラシー的な社会を、できるだけ不愉快なものであると映るようユリシーズに語らせている*12ユリシーズいわく、社会には地位と階級による序列があり、この秩序は宇宙の秩序に対応する。人々が与えられた序列、優先順位、地位を遵守することを怠れば、社会は乱れる。比較的最近までヨーロッパでは、このような階層的世界観が支配的だった。古代の権威と聖書が、階層的世界観を正当化した。古代世界の知者であるアリストテレスは、人間には生まれながらの支配者と、生まれながらの奴隷がいると語り、奴隷制度を肯定した。聖書の記述はたびたび、地上の権力者や支配者に従えと命じる。中世の“ 存在の大いなる連鎖 a great chain of being ”の観念は、こうした階層的世界観の精巧な表現である*13

 身分社会においては、社会を構成する基本単位は個人ではなく、家族である。上流階級の「個人」は財産と「血統」という先祖代々のバトンを受け継ぐリレーチームの一人だ。家は政治の基本単位でもあり、ハプスブルク家のように広大な複数の地域を一つの王朝が支配することもあった。もちろん、国家の指導者となる条件は能力ではなく血統だ。王は自らを、天界の秩序と地上の秩序を仲立ちする偉大な存在であると喧伝した。

 現代のメリトクラシー支持者にとって「勤勉」「野心」「教育」は美徳だが、身分社会の貴族にとっては、肉体労働など高貴な者がすることではなく、個人の野心は秩序を乱すものとされた。頭の固い貴族のなかには、勉強や学問を卑しいものと考えたり、子どもが虚弱なガリ勉になることを嫌い教育を禁止する者もいた。

 身分社会では、職業はパトロン縁故主義、親からの相続、カネにものを言わせた公職の購入、といった要因で決まる。低い身分ならば、親から相続された低い身分のまま。宮廷に出入りできる身分ならば王様に「頼みごと」をして、美味しい仕事を獲得しようとする。王にもメリットがあり、仕事をあっせんすることで臣下に対する支配を維持・拡大できる。ある日のルイ14世が配った職の数は100を超えていた。宮廷は巨大な雇用市場であり、争奪戦の会場だった。例えば会計係が死にかけているとの知らせが入ると、彼が死ぬ前から16人が会計係の職を求めてきた。人々はせっせと有力者におべっかを使い、良い仕事を得ようとした。イギリスでは国王と議会という2つの権力があったが、公職を求めてパトロンに媚びへつらい、共通善(公益)を顧みない点はフランスと同じだった。

 現代の私たちには、「王朝」という政治システムを理解できても、そのシステムに付随していた縁故主義パトロン、金権主義に覆われた社会に道徳的共感をするのは困難となっている。私たちがあまりに自明としている道徳的価値観からあまりにかけ離れた価値観だからだ。公職を売り飛ばすような政府関係者に、みずからの公的使命が果たせるのだろうか。それを現代では端的に「腐敗」と呼ぶ。実のところ常態的に「腐敗」した身分社会には合理性や長所もあり、意外と長続きしたが、社会の近代化が進むと時代遅れとなり、次第にメリトクラシー社会にとってかわられた。

第二部 近代以前のメリトクラシー

f:id:liberalartsblog:20220126103200p:plain*14

 第二部では、近代以前の世界におけるメリトクラシーの歴史を検討する。ウールドリッジは大きく分けて、プラトンの影響、中国の科挙制度の歴史、ユダヤ人とメリトクラシーとの関係の三つを論じている。本記事ではこのうちプラトンの影響のみを取り上げる。『国家』が提示する「正しき」エリート像と、これとは対照的な大衆支配や腐敗したエリートのモチーフには注意して欲しい。その後の部でもたびたび変奏されるテーマだからだ。

 メリトクラシーに関するすべての思索は、プラトンへの注釈である*15プラトンは『国家 The Republic』で、メリトクラシーに基づく理想国家を描いている。民主主義は一見魅力的だが、人々は短期的なものを追い求め、長期的視野に欠け、衝動に弱い。また民衆はパフォーマンスが上手い悪徳政治家の台頭を許してしまう。加えて富者と貧者の終わりなき抗争が、いずれ社会を無秩序状態へと導くだろう。その結果、民衆は頼れる指導者として独裁者を台頭させる。したがって理性的に統制されない民主主義社会は、無残な自滅へと向かうのだ。こうした危機感が、プラトンを禁欲的なメリトクラシーに基づく共和国の構想へと向かわせた。

 プラトンの理想郷では、人々は才能に応じて「金の人間」「銀の人間」「青銅の人間」の三種類に区別される。生まれつきの才能と正しい教育によって、公正な統治能力を備えた金の人間には、最低限の財産しか持たせず、無私の精神で共和国の守護者を担わせる*16。銀の人間は、富の創造者であり生産プロセスを統率する。青銅の人間は農夫や職人で、人々の生活に必要なものの世話を行う。金の親から金の子どもが生まれるとは限らない。このためプラトンは、守護者に人々の子どもの才能を見抜く任務を課した。将来守護者となる金の子どもは、親元から引き離して共同体のために厳しく養育する。共同体による養育には、すべての子どもに平等な機会を与え、守護者となる有能な女性を子育ての重荷から解放し、親子の情といった共同体に害をなすエゴを断ち切るメリットがあった。

 『国家』の影響のなかでも、エリート主義と、反ポピュリズムの統治思想は現代性が大きい。『国家』からインスピレーションを得てエリート教育を行ったパブリックスクール・オックスフォード・ケンブリッジからは、数々の政治家や官僚が生まれて大英帝国を牽引した。また『国家』におけるポピュリズムの害悪の指摘、政治のエンタメ化、ツイッターにいるような群衆、専門家に対する怒りなどは、現代の問題を先取りしている。

第三部 メリトクラシーの勃興

f:id:liberalartsblog:20220126105124p:plain*17

 第三部では、近代世界を創出した自由主義革命に焦点を合わせる。メリトクラシー化が進む社会における「自然の貴族」というエリート像の理解と、「自然の貴族」に対する賛否両論の評価を理解することが重要だ。

 フランス革命は、ヨーロッパの政治を焚きつけて、メリトクラシーと向き合わざるを得なくした。『人間と市民の権利の宣言』(1789年)第6条は、台頭しつつあるメリトクラシーの理念を、最も簡潔に表現している。

第6条 すべての市民は[…中略…]その能力に従って、かつ、その徳性と才能以外で選別をせずに、すべての位階、地位および公職に等しく就くことができる*18

あらゆる個人が、能力さえあれば政治家を含むどんな地位にも就くことができるという理想…。この第6条は、中国の科挙制度の理念やプラトンの理想国家論よりもはるかに、個人のメリトクラシーが徹底している。フランス革命以後、身分社会と王朝が核となる政治は急速に衰退した。そして「平等」の理念が新しい社会を導いていった。

 「平等」の精確な定義はさておき、ヴォルテールがそうであったように、新しいエリートの主流派は平等を「機会の平等」と解釈し、無差別な結果の平等よりも、「才能に基づく自然の貴族制 the natural aristocracy of talent」のアイデアに惹きつけられた。これは様々な才能 talentや美徳 virtueに優れた者が国を統治するべきだというものだ。

 フランス革命後は隣国に後れをとってはいけないとの「軍拡競争」も手伝って、ドイツ語圏やイギリスといった隣国でもメリトクラシーに基づく制度改革が行われていった。20世紀前半のイギリスでは、有力な政治権力として成長する社会主義者たちがメリトクラシー改革を推し進めた。社会主義者たちにとって現状の政府が非効率的なのは宿命ではなく、無能な上流階級が政府を掌握しているせいである。ウェッブ夫妻ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスフェビアン協会を創設し、イギリス労働党の綱領に国有化条項を盛り込んだ社会主義者のリーダーだ。ウェッブ夫妻のビジョンは、国家が育て、官僚が規律し、科学が導き、効率を重視する社会の実現だった。政治の領域に専門家を招き入れ、権力は大衆ではなく才能あるエリートに移譲するべきとされた。

 ウェッブ夫妻による資本主義批判のポイントは、現行の資本主義が本人の能力ではなく、親族の力で報われるシステムであることだ。ウェッブ夫妻貧困層の人々の才覚を奨学金を使って育て上げ、政治的支配層を含む社会の適切な場所まで引き上げようと考えた。また鈍い子にも賢い子にも、金持ちの子にも貧乏な子にも、そのポテンシャルを引き出すために必要な教育を、国が与えるべきだとした。ウェッブ夫妻はひとの個性が多様であることを心得ており、テストと試験を、子どもの異なる能力に合った様々な学校への振り分けに用いることを望んだ。「専門家による支配」と「能力に基づく地位上昇」というウェッブ夫妻メリトクラシー信奉は、当時の左派に広く受け入れられた。

 1945年のクレメント・アトリー政権は労働党の黄金時代であり、この頃の労働党は平等よりも能力と機会を重視する、メリトクラシー政党だった。だが1950年代後半から60年代にかけて、労働党メリトクラシー路線の撤回へと向かう。

 アメリカ独立宣言冒頭の「すべての人間は平等に造られている」という文言は、個人の能力やエネルギーという「自然の差異」を、階級とカーストという人為的差異によって押し殺してはならない、という意味だ。その半面、アメリカは500万人もの黒人奴隷を維持し、女性を社会的上昇から排除するという大きな自己欺瞞を抱える国でもあった。

 アメリカは王侯貴族が存在しない「生まれながらのメリトクラシーの国」だ。ただし建国の父たちは、必ずしもメリトクラシーへの賛同一色ではない。第3代アメリカ大統領トーマス・ジェファーソンは「自然の貴族」を積極的に擁護し、富と家柄にあぐらをかく無能なエリートを規制すべきとした。対照的に、第2代大統領ジョン・アダムズは自然の貴族は共和国にとって危険だと考えた。なぜなら個人の能力の高さと善人であることには関連性がないからだ。このため自然の貴族を、賢明な憲法によって上手く飼い慣らすことを望んだ。

第四部 メリトクラッツの行進

f:id:liberalartsblog:20220126120126p:plain*19

 第四部では、知的能力のテストを軸に社会が変化していく様子を描いている。四部を通して、我々のよく知る社会が次第に姿を現してくる。その社会とは、特定の知的能力が勝者と敗者を分ける社会である。

 二つの世界大戦にまたがる期間(戦間期)の心理学者たちは、社会的に影響力の大きな「能力 merit」の科学的測定方法を喧伝することで、メリトクラシーを現代化した。ジェファーソンやナポレオンやジャクソンのメリトクラシーでは、様々な美徳 virtues や才能 talentsにより能力merit を定義した。しかし戦間期の心理学者たちは能力 meritをもっぱら特定の知的能力(IQ)へと切り詰めた。

 心理学者による能力の再定義は、教育から軍隊まで強い影響を及ぼした。IQテストは第一次世界大戦への1917年のアメリカ参戦によって、広く実用化された。心理学者のルイス・ターマンとロバート・ヤーキーズは軍の依頼で、170万人もの兵士を処理するための知能検査テストを考案した。1日1万人の兵士がテストを受け、その成績いかんで配置転換や除隊といった選別が行われた。戦後に起こったのは知能テストの大衆化である。ターマンとヤーキーズは軍のテストを教育向けに転用した。1920年代半ばには、およそ80%の都市は学校でIQテストを実施し、生徒を能力別グループに振り分けた。公務員にも警官にもテストが課せられるようになり、要するに、今我々が生きているようなテスト偏重社会が生み出されつつあった。ジェファーソンの唱えた「自然の貴族」というエリート像は、「頭脳の貴族 aristocracy of brains」へと刷新されつつあった。

 イギリスの進歩主義者たちが描く新しいビジョンは、旧来の土地貴族から、知的能力に基づく新しい頭脳の貴族への権力移行だった。IQテストの「公正さ」には貴族も従わざるを得ない。そのことが「無血革命」を可能にした意義は大きい。科学者は社会階層とIQの高低の関係にも注目した。IQと遺伝に関する保守的な見方と、革新的な見方があった。フランシス・ゴルトンは1901年のハクスリー講演で、社会階層は生まれつきの能力の差を反映しているとほのめかした。すなわち、貧困者や犯罪者の境遇は、遺伝的に能力が低いことの自然な報いだというわけだ。

 20世紀イギリスで最も影響力のあった心理学者であるシリル・バートは、父親と息子のIQの相関がわずか0.5 [50%]であることを根拠に、IQに基づくメリトクラシー社会は社会的流動性が高くなると示唆した。またバートはイギリスで11歳前後の子どもが受ける「イレブンプラス eleven-plus」というIQテストに似た選抜テストを擁護した。理由は社会的特権ではなく生まれつきの賢さに従って、社会階層をシャッフルするテストであるためだ。

 ジェイムス・コナントは、ハーバード大学で1933年から1953年に渡り学長を務めた、教育界の大物である。ハーバード大学は、アメリカの教育界におけるメリトクラシー改革で先陣を切った。コナントは学長として最初の報告書で、「金持ちも文無しも、優れた才能を持つ者は誰でもハーバードで教育を受けられるようにすべきだ」と語り、「大学の学業で成功する能力」に基づき支給する国立奨学金プログラムを用意した。「大学の学業で成功する能力」を見極めるテストとして導入されたSATは、アメリカの奨学金受給資格と大学入学資格のテストとして普及していく。アメリカは富のラディカルな再分配ではなく、努力とIQが成功を約束する社会を目指し*20階級意識と政治的過激主義というヨーロッパの双子の苦悩を避けようとした。

 最後に女性の地位向上にメリトクラシーが果たした役割について論じる。女性は伝統的に、二つの見方に抑圧されていた。第一の「役割の違い」という固定観念によれば男性と女性とは果たすべき役割が異なる。男性は外に出て競争と金儲けを領分とし、女性は家事と子育てという私的領域に専念するべきだとされた。第二の「女性の弱さ」という固定観念によれば、女性は平均身長が低く、月経に支配され、情緒不安定であるとされた。資本主義の発達とともに、弱い性である女性を外から家庭に戻し、保護するべきだとの社会的圧力も強まった。

 メリトクラシーは、女性の地位向上を阻むこうした文化的風潮を打ち破る中心的役割を果たした。特に、現代社会で知的能力が重視されるようになると、身長や腕っぷしや度胸はもはや重要ではなくなった。政治家や官僚、慈善活動、学業成績、学術、芸術分野、軍需工場などさまざまな方面で女性が活躍し成果を上げると、「二つの見方」は無効となり、より多くの女性がより広い領域へ進出することを止めるのは難しくなった。

第五部 メリトクラシーの危機

f:id:liberalartsblog:20220126115407p:plain*21

 第五部では、近現代社会に浸透したメリトクラシー原理に対する批判と、メリトクラシーの「堕落」が現代社会にもたらす暗い影を取り上げる。リベラルやフェミニスト社会主義者など、メリトクラシー革命はおもに同時代の左派が推進してきた。しかし1930年代以降、左派はメリトクラシーへの反発を強めていく。ウールドリッジは、メリトクラシー批判の様々な論点を挙げている。このうち評者が最も重要と考える3つの論点を取り上げる。

 第一に、遺伝だけでもなく、また公教育だけでもなく、より複雑な環境要因が子どもの成功を左右することが判明した。左派のメリトクラシー支持者は、公教育の充実に大きな期待をかけた。だがJ.E.フラウド他『社会階層と教育の機会 Social Class and Educational Opportunity』(1956年)に示されたように、戦後イギリスにおける教育制度の空前の拡大が、恵まれない子供たちの相対的な機会の改善にはほとんど、あるいはまったく役立っていないとの驚くべき学際的コンセンサスが形成された。

 アメリカでも1966年に社会学者のジェームズ・コールマンが発表した報告書が、公教育の効果に同じような懐疑的見方を提示した。コールマンによると校舎やカリキュラムや教師の特徴において、白人の多い学校と黒人の多い学校には差がない。にもかかわらず白人と黒人の成績には大きな差がある。その要因は家庭の貧しさに関連しているようだった。またバジル・バーンステインの「言語コード」やピエール・ブルデューの「文化資本」の研究は、個人が属する文化が、テストの点数や社会的地位の獲得に影響することを指摘する。貧困や、家庭における教育伝統といった学校教育とは別の社会的要因がクローズアップされ、プラトン的な政府によるメリトクラシーの実現は、公教育のみを改善するよりも見通しがはるかに険しくなった。

 第二に、メリトクラシーの価値観への批判を取り上げる。イギリス労働党の大物社会学者であるマイケル・ヤングの著書『メリトクラシーの隆盛 The Rise of the Meritocracy』(1958年)は、IQの高さがイコール階級の高さとなるディストピアの到来を警告した。『メリトクラシーの隆盛』は、もし社会のメリトクラシー化が徹底されれば、勝者は驕り、敗者は屈辱を爆発させる、社会主義の理想とはかけ離れた能力格差社会になってしまうことを描いた。

 ハーバード大学の哲学者ジョン・ロールズの『正義論 A Theory of Justice』(1971年)は、メリトクラシーが正義に適った原理であるとのこれまでの想定を覆した。ある時期まで多くの社会科学者は、公正な国家の役割とは、生まれつきの能力の多寡に応じた機会を人々に与えることであると考えていた。すなわちメリトクラシーの「正義」観と、それが正当化するであろう社会的格差は黙認されていた。ロールズは才能の格差を含む社会的・経済的不平等に対し、社会で最も恵まれない人が長期的に最大の利益を得るように制度が補正するべきであると論じ、大きな衝撃を与えた*22

 第三の論点は、社会運動における集団主義の台頭だ。1960年代の新左翼やブラック・アメリカンの権利運動、第二波フェミニズムなどによって、左派がコミュニティやグループ・アイデンティティの自覚、集団の権利を重視する傾向はより高まった。こうした思潮は、卓越した個人に焦点を合わせるメリトクラシーへの逆風を強くした。

 だが左派における平準化主義の深まりにも関わらず1980年代以降、格差が深刻化した。この時代に適したエリートは、精力的に働き、お金が好きで、自分と同じような高い社会的地位を教育を使って子どもに受け継がせたがり、「TED」*23で講演するような賢い人々と交流し、エリート大学卒同士の同類婚で上流人脈を大事にするといった、伝統的貴族と「自然の貴族」をハイブリッドしたような人々だ。アメリカの38のエリート大学において、アメリカ人口でわずか上位1%の富裕層の学生数は、下位60%の学生数を上回っていた*24ハーバード大学の学生の親の平均収入は、年間45万ドルだ。英国のオックスフォード・ケンブリッジの両大学では、人口の7パーセント向けに過ぎない私立学校で教育を受けた生徒が、約半数を占めている。メリトクラシーは、自分の子どもが公正な競争で学位を勝ち取ったかのように装わせつつ、金持ちや権力者が特権を子どもへと確実に継承するための道具へと堕落した。メリトクラシー金権政治との不安定な結婚を、ウールドリッジは「金権メリトクラシーpluto-meritocratic」状況と呼ぶ。

おわりに メリトクラシーの再生

f:id:liberalartsblog:20220126122925p:plain*25

 「おわりに」では、ウールドリッジが数々の論拠を挙げてメリトクラシーの擁護を行う。といっても手放しの全面擁護はせず、堕落を抱えたメリトクラシーの問題点を指摘しつつも、メリトクラシーの改革案を提示している。

 メリトクラシーは近現代の世界を作り上げた。人種や性別の壁を取り払い、社会の底から頂点まで続くチャンスのハシゴを用意し、低迷する組織に活力を吹き込んだ。一方では効率性と公正さ、他方では「社会的差異」と「道徳的平等」との緊張関係のバランスを取るうえで、メリトクラシーはほかの原理より優れていた。例えば就職活動では、応募者を適性によって公平に選抜するべきことになっている。ワクチン開発を優秀な科学者が行うことで、効果的に多くの人々の命が救われる。メリトクラシーを徹底したシンガポールは繁栄し、メリトクラシーに抵抗したギリシャやイタリアのような国は何十年もの間、停滞に陥っている。先進国へと向かう移民たちは、祖国の縁故主義汚職から逃れてきたと語る。最も人気のある移住先はアメリカ、カナダ、ドイツ、フランスなど、大まかに言ってメリトクラシーの浸透した国々だ。

 ロールズやサンデルのような哲学者は、ある個人に才能があることも、勤勉であることも偶然授かった属性(社会的資源)に過ぎないとして、才能に見合う高い報酬を受け取るのは不公平だと述べる。しかし努力せず才能を開花させる人間はまずいない。血の滲むような努力をし、将来も市場価値が高いと見込んだスキルの開発へと努力を投資する。高い報酬は、このような自己犠牲とリスクを取った投資からの公正な見返りだ。またこの報酬が無くては挑戦する人が減るから、優れた才能の人々が生み出し、我々が受け取れる財やサービスは減少する(社会的資源利用の効率性が下がる)。メリトクラシーと市場のインセンティブの組み合わせは、社会的利益を生み出す分野へ才能ある人々を誘い込むための理にかなったメカニズムだ。

 だがメリトクラシーの擁護論で最も強力なのは、上記のような経済的議論ではなく道徳的なものである。ひたむきに努力し、何かに打ち込み才能と能力を磨くことは、おのれの運命を支配しているとの誇りを与える。人間というものをもっぱら受動的に捉え、偶然や状況に流され、国家の庇護を受けるだけの弱弱しい犠牲者とみることは、かれらを幼児扱いすることだ。

 金権メリトクラシーへと堕落した欧米諸国のメリトクラシー社会を、どうすれば再び活性化させられるのか。

 第一に、メリトクラシーの理想を徹底することだ。メリトクラシーが問題なのではなく、メリトクラシーの不足が問題なのだ。1980年代以降、能力とはお金を稼ぐことであり、教育はお金で買えるものであると見做されるようになった。こうした現状は改めなくてはならない。メリトクラシーにおける金持ちの見かけの優位を是正する努力を進めること。また子どもの生まれつきの能力 innate abilityと、単なる学習の成果 mere learningを見抜く方法を開発し、生まれつき能力の高い子どもを優遇することも必要だ。

 第二に、メリトクラシーを賢明なものへ修正する必要がある。メリトクラシーが徹底した世界は、ひとが耐えられるものではない。もしも終わりなき差異化ゲームと序列づけを強いられ、自分の評判が下がることに怯え、敗者はみじめさを感じるならば、そのような世界は理想とならない。メリトクラシー競争の勝者がより広く社会的責任感を抱き、敗者が尊厳と自己実現をなんらかのやり方で確保できるようにしよう。まずは第一のメリトクラシーを徹底することからはじめて、第二の賢明なメリトクラシーへと進んでいこう。

 そのための具体的政策の一つは、IQテストのスコアと社会的ニーズ social needに応じて小学生に十分な国立奨学金を支給し、全国いかなる学校にでも通えるようにする制度改革である。この新しい制度では、裕福でない家庭で育った「隠れたアインシュタイン」が、いきなり飛び級して大学に通うこともできる。また国の機関で数年間働く代わりに、国の奨学金を貰って大学に通えるような制度も良いだろう。

 こうした提案に対し、IQの高い人々の子孫が永遠に支配階級となるような、社会的流動性に乏しい社会の到来を懸念する人もいるかもしれない。しかし「平均への回帰(例えば背の高い親からは少し背の低い子が生まれ、背の低い親からは少し背の高い子が生まれる傾向があること)」という統計現象と、遺伝子を組み合わせた結果には予測不可能な変動があることから、親が賢くても子が賢くなるとは限らないし、逆もまた言える。したがってメリトクラシーを徹底した社会の世代間流動性は高くなる。

 西洋の名門大学の卒業者名簿は、特権階級の子どもの名前で埋め尽くされつつある。金権政治に陥り、停滞した西洋が中国のリーダーシップに敗れてしまわないために、今こそメリトクラシーをアップデートしなくてはならない。

評価(評者・田楽心)

 メリトクラシーをテーマとする本で最近話題になったのは、冒頭でも触れたマイケル・サンデルの『実力も運のうち』と、そのヒットを追い風に2021年復刊したマイケル・ヤングの古典『メリトクラシー』だろう。しかし『実力も運のうち』は最近数十年の歴史にサンデルの関心が集中しており*26、後で論じる大きな盲点もある。また『メリトクラシー』の方は、2034年5月の騒乱*27に巻き込まれ殺されたとおぼしき人物が書いた歴史研究遺稿*28……という体裁で1958(または1957)年に出版された、今でいうと『異常論文』*29の一種だ。このためヤングの『メリトクラシー』は啓発的ではあるものの、事実に基づきメリトクラシーの思想史を学ぶことには向かない。そうしたわけで、西洋を中心にメリトクラシーの長大な歴史をまとめた『才能の貴族』は、一連の論争で非常に有益な情報を与えてくれる上に興味深い。

 サンデルの『実力も運のうち』は大ヒットしているし優れた本だが、欠けている視点を補完するために『才能の貴族』も合わせて読むことが望ましい。その理由を説明する。『実力も運のうち』の大きな盲点は、歴史的事象に関する説明のバランスが悪いことだ。サンデルは過去40年間の歴史を総括し、昔のエリートは良く統治していたが、メリトクラシーに染まった今のエリートはダメになったと評する。

過去四〇年間にわたり、能力主義的エリートが手際よく国を治めてきたとは言いがたい。一九四〇年から一九八〇年にかけてアメリカを統治していたエリートは、はるかにうまくやった。第二次世界大戦に勝利し、ヨーロッパと日本の再建に貢献し、社会保障制度を強化し、人種差別を廃止し、四〇年にわたる経済成長を牽引して富裕層にも貧困層にもその恵みを施した。対照的に、その後国を治めてきたエリートがわれわれにもたらしてきたのは、以下のようなものだった。大半の労働者の賃金の四〇年間にわたる低迷、一九二〇年以来見られなかった所得と富の不平等、イラク戦争アフガニスタンでの一九年に及ぶ決着のつかない戦争、金融の自由化、二〇〇八年の金融危機、インフラの崩壊、世界最高の受刑率、民主主義を形骸化する選挙資金システムと都合よく改変された下院選挙区。(『実力も運のうち』46頁)

 こうした見方には二つ問題がある。第一にサンデルの説明には時の為政者が特定の政策を行うことができ、また別の政策を行わなわずに済んだ経済状況に対する考慮が欠けている。このため「世の中が良くなるのも悪くなるのも、為政者のイデオロギーと手腕次第だ。悪いイデオロギーの為政者を倒せば世の中は良くなる」と信じる単純な善玉悪玉史観を広めかねない。

 環境要因を取り上げると、実のところサンデルが賞賛する一九四〇年から一九七〇年にかけてのエリートたちは、今よりはるかに恵まれた経済状況を基盤にしていた。マルク・レヴィンソンの『例外時代』*30が論じるところでは、1948年から1973年の先進国の経済は、西洋2,000年の歴史の中でも世界史的に“例外時代”と呼べる好調期だった。

「戦後経済の驚異的な軌道がピークに達したのは一九七三年、世界中の一人当たり所得の平均が4.5パーセントも伸びたときだった。この勢いでいけば個人所得は一六年で二倍、三ニ年で四倍になる計算だった。世界中のどこでも、平均的な人なら楽観的になるだけの理由があったのだ。 だが、良き時代は終わった。一九七三年に世界が享受した驚異的な経済発展は、二度と望むべくもない。不安定な景況があたりまえで、安定はあくまで例外になってしまった。ヨーロッパ、中南米、そして日本でも、二〇世紀の終わりまでに平均所得が成長する度合いは一九七三年までの数年間で達成した成長速度の半分にも満たなかった。」(13頁)

サンデルが「はるかにうまくやった」と褒める当時の為政者たちは、好調な経済成長による余裕を背景に、国民に対しケインズ主義的公共投資に労働者保護、福祉国家の恩恵といった「善政」を約束することができた。つまりサンデルが賞賛する統治は、「例外」的に恵まれた経済構造が可能としていた可能性がある。しかしその頃主流だったケインズ主義の経済政策は、スタグフレーションという目の前の危機に有効な対処ができず、信用と自信を失ってしまったとされる。このため為政者たちは新たな経済政策へのパラダイム転換を余儀なくされた。均衡財政を優先し一定の失業者を維持することによるインフレ鎮圧と、ワークフェアに代表される民間の労働市場を有効活用する政策である。これはいかにも労働者に優しくなさそうな政策群だが、たとえ道徳的に卓越した為政者であっても、以前と同じ経済的パラダイムで「うまくや」り続ける事は出来なかっただろう。

 第二にサンデルが焦点を合わせるのが、主として最近数十年の歴史に限られることだ。他方で、ウールドリッジは王侯貴族が支配する数百年前の前近代社会の欠点を生々しく描き出し、これとは対照的な、メリトクラシーに基づく若々しい近代社会の勃興に描き出した。この物語りかたは成功していると考える。サンデルの歴史的視点はメリトクラシーに評価を下すのには不十分だったと、多くの読者はウールドリッジに説得されるだろう。

 前近代社会と近代社会におけるメリトクラシーの意義の擁護について、ウールドリッジの論証は説得的だ。有力な社会主義者や政党は、その黄金時代にさえもメリトクラシーを支持していた。その理由は既得権を握っていた貴族への対抗思想として、当時はメリトクラシーこそが「正論」となり得たからだと納得できる。つまり前近代社会や伝統的貴族の支配に対抗する「大義名分」として描くとき、メリトクラシーは輝いている。

 雲行きが怪しくなるのは、ウールドリッジが現代社会におけるメリトクラシーを擁護する場面だ。マイケル・ヤングは1950年代末に、次のように社会主義者を批判した。「機会均等というものは、実際に適用されると、不平等になりうるということが社会主義者にはわからなかった」*31。もはや「機会の平等」の魅力は色褪せつつあった。それでは現在、メリトクラシーにはどれほどの輝きが残っているのだろう。ウールドリッジは、現代の欧米社会はメリトクラシー金権政治とが結婚した「金権メリトクラシー」に陥っていると診断し、打開策のスタートとしてまずは「IQと社会的ニーズ」に基づくメリトクラシーの改革を徹底せよと提案する。これについて幾つか踏み込んだ検討を行いたい。

 まず「IQと社会的ニーズ」に基づくメリトクラシーの社会的効率性について。ロールズやサンデルに対するウールドリッジの反論の一つは、人的資源を有効活用する効率性と競争参加者のモチベーションに訴えるものだった。ウールドリッジは、IQテストのスコアと社会的ニーズ social needに応じて小学生に十分な国立奨学金を支給し、大学を含めた全国いかなる学校にでも通えるようにせよと述べる。そうすることでウールドリッジは、経済的に恵まれない子どもがより公正に競争できる環境を用意し、効率的な人材活用を行う社会へと変革できると考える*32。ウールドリッジの先天的IQへのこだわりは、まるでマイケル・ヤングの著作『メリトクラシー』のようだ。しかし『メリトクラシー』はそもそもディストピアを描く風刺ものであったはずだ。

 とはいえ、私は必ずしもウールドリッジに反対はしない。もしもウールドリッジが主張するようにIQへのこだわりがより多くの「隠れたアインシュタイン」を発掘する事につながるのであれば、ウールドリッジの提案には一定の効率性がある。科学技術が様々な分野で決定的重要性を持ち、中国がその点でも自由民主主義諸国を脅かす現状では、科学者・技術者に適した人材を優先して効率的に育て上げることは重要だ。この点に反論する気は起きない。

 私が問題があると考えるのは、ウールドリッジが描写する「能力 merit」の範囲が、科学者などIQテストと成功とが比較的相関しそうなキャリアに偏っていることだ。世の中には、IQで測れそうにない様々な資質やキャリアと「社会的ニーズ」がある。芸術家の能力やケアの能力はその一例だ。そうした多様な才能を、IQ以外の才能テストや奨学金給付などによって国家が支援せず伸ばさないとすれば、ウールドリッジ風に言えば「人的資源の活用効率が悪い」のではないだろうか。確かに本書にも「職業教育をアップグレードせよ」とか「億を稼ぐスポーツ選手や芸能人もいる」といった、能力の多様性と多様な社会的ニーズに目配りをした提案もあるにはある。しかし例えばIQの低い子どもの将来を、職業教育のアップグレードによってどのように改善できるのかも論じてほしい。

 さらに、科学・芸術を産む知性や感性は個人のIQだけに依存しているわけではない。むしろ集団による協調や協力や身に着けた文化の方が重要であることが多いだろう。それ故に、個人の生まれつきのIQを絶対視する孤立主義的人間モデルと、これに基づく科学振興が十全な成功を収められるか怪しい。たしかにアインシュタインがいなければ、当時、相対性理論は発見されなかったかもしれないが、いずれ誰かが発見しただろう。スポーツ選手や芸能界で成功する道もあるとの示唆にいたっては、あまりにもテキトーな提案だ。私は「人的資源」「人材」を有効活用するべきだという経済人風の論点を認める。その上で、ウールドリッジが喧伝するIQに偏重したメリトクラシー社会の効率性に、疑問符を付ける。

 次は「IQと社会的ニーズ」に基づくメリトクラシーという理想の魅力について。多くの人々は、「生まれながらのIQに基づき、社会的地位を序列づけられたい」などとは必ずしも願わないのではないか。中流以上の多くの親は、子どもの生まれつきのIQが低いと社会的地位が下がってしまう社会を嫌がるだろう。また社会主義寄りの人ならば、IQ偏重社会の敗者に対し手厚く再分配したり、せめて別の割のいい仕事を用意するべきだと考えるだろう。本書は知的能力で序列化する社会において、知的能力競争に敗れた人への救済策の描写に乏しい。

 最後に市場原理について。ウールドリッジは、市場価値の大きなスキルに投資した者が高い報酬を得るのは当然だと述べる。だがサンデルの提起したきわめて重要な論点は、ある仕事が持つ市場価値の大きさと、その仕事が持つ社会的価値の大きさは必ずしも相関しないということだった。サンデルは、「スーパーマーケットの店員、配送員、在宅医療供給業者、その他不可欠だが給料は高くない労働者」*33は共通善(公共の利益)に貢献しているのに、高収入のエリートから軽んじられがちだ。加えて「能力」が金銭で測られがちな現代社会では、金銭を稼ぐゲームの勝者は敗者を驕り見下し、敗者は屈辱を感じて対立が深刻化する。サンデルはこのように指摘した。こうした問題への対応として、労働者の給与税を引き下げるか撤廃し、また実体経済にほとんど貢献しない金融取引に、懲罰課税することを提案している*34。サンデルの提案は、プラトンが『国家』で守護者階級は私有財産を持てないように取り決めたことを連想させる。

 対照的にウールドリッジは社会にとって「不可欠だが給料は高くない労働者」への、これといった支援策を打ち出していない。例えば政府が手厚い補助を行いエッセンシャルワーカーの金銭的報酬を引き上げる(価格支持する)べきだといった提案はない。ウールドリッジにおける「格差是正」策には、生殖という遺伝子のくじ引きによって、生まれつきのIQをシャッフルするというアイデアもある。つまり「今生きているIQが低い人は、子どもや孫に期待しなさい」というものだ。「人生の選択肢が生まれた家の経済的事情に左右される」社会と、「人生の選択肢が生まれつきのIQに左右される」社会とでウールドリッジは後者が好ましいと考えるが、私にはどっちもどっちに思える。

 要するに、サンデルとウールドリッジとでは問題意識が異なる。サンデルはメリトクラシーの多義性を指摘したうえで、どのような形態であってもメリトクラシーが生む社会の分断を懸念している。ウールドリッジはメリトクラシーが富裕層支配の道具となり、生まれつきの知的能力は高いが経済的に恵まれない人々にとって不公平であることを最も問題視する。重視する問題が異なるので、ウールドリッジのサンデル批判が噛み合わないのは当然だ。

 まとめるとウールドリッジのメリトクラシー擁護論は、前近代と近代社会においては成功している(第四部までに相当)。しかし現代社会においてウールドリッジの掲げるメリトクラシー改革論は、精彩を欠くと言わざるを得ない。それは現代社会の道徳水準が、もはや「身分制度がないだけありがたいだろう」とか「形だけの機会均等でもありがたいだろう」という水準で考えないのに加え、「能力により選別が行われる社会の過酷さを緩和してほしい」という声に強く反応するようになったからだ。育児や病気や介護のためにキャリアが長らく中断しても、障害などのために仕事能力が低くても、自分が誇る能力に対する経済的ニーズが薄くても、犯罪歴があっても、充実した生を送りたいと願う。こうした人々は能力による選別がより徹底され、リスクの自己責任化が強まり、人生の路線変更や失敗が許されなくなり、能力に対する評価が市場における僅かな金銭的評価と同一視されるほど、ますます救われなくなる。

 私は「ジョブ・ギャランティ(政府による就業保証)」という制度は、融通の利かないメリトクラシーが生む不幸を、ある程度緩和すると考えている。またジョブ・ギャランティならば、ウールドリッジのように「社会的資源の有効活用」を訴える経済人をもかなり説得できる可能性が高い。加えてジョブ・ギャランティの代表的学者であるパヴリーナ・チャネバは、地域コミュニティを再生するための仕事創出を掲げている。このためサンデルのようなコミュニタリアンからも支持を取り付けられる見込みが高い。ジョブ・ギャランティは現行のメリトクラシーの害悪を是正できる制度であり、次回あたり書評で取り上げたいテーマである。

*1:10分でわかる日本のメリトクラシー(≒学歴社会)研究史 -清く正しく小賢しく https://kozakashiku.hatenablog.com/entry/2021/05/13/020320 メリトクラシーについてどんな議論がされてきたのかをざっと掴むならこの記事。ウールドリッジの問題意識とは大分異なる議論がされているようだと推察できる。他方でメリトクラシーが機会の平等を装い、その裏にある格差を覆い隠してしまうという、『才能の貴族』と共通する指摘もみられる。

*2:このメリトクラシーの定義は、マイケル・ヤング 著 窪田鎮夫・山元卯一郎 共訳『メリトクラシー』の訳者解説より。(講談社エディトリアル、2021年 272-273頁)

*3:マイケル・サンデル 著, 鬼澤忍 訳『実力も運のうち 能力主義は正義か?』早川書房 2021年

*4:『実力も運のうち 能力主義は正義か?』 11頁

*5: 「GAFA、コロナ下で最高益…通販・動画など売り上げ伸ばす」読売新聞オンライン 2021年2月4日  https://www.yomiuri.co.jp/economy/20210204-OYT1T50094/

*6:「世界の富豪上位10人、コロナ禍で資産倍増」時事ドットコム 2022年01月18日https://www.jiji.com/jc/article?k=20220118042517a&g=afp

*7: ‘ECONOMIST POLITICAL EDITOR ADRIAN WOOLDRIDGE’ Zócalo Public Square 2021年11月16日 https://www.zocalopublicsquare.org/2021/11/16/economist-political-editor-adrian-wooldridge/personalities/in-the-green-room/

*8: アメリカの優秀な理系の子どもたち/US Department of Energy, Office of Science, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=662339による

*9:メリトクラシー』の訳者解説によると、この語の初出は「メリトクラシーが完全に確立する以前には、世襲制度にとって代わるものとして年齢層による階段制度が、社会の安定のために必要であったろうが、それは非常に高くついた」(116頁)という一文だ。(マイケル・ヤング 著 窪田鎮夫・山元卯一郎 共訳『メリトクラシー講談社エディトリアル 2021年 272頁)

*10:ウールドリッジによる最も簡潔なメリトクラシーの定義は、「IQに努力を加え、そこから差別的偏見を差し引いたもの Meritocracy equals IQ plus effort, minus bias」。/‘ECONOMIST POLITICAL EDITOR ADRIAN WOOLDRIDGE’ Zócalo Public Square 2021年11月16日 https://www.zocalopublicsquare.org/2021/11/16/economist-political-editor-adrian-wooldridge/personalities/in-the-green-room/ またマイケル・ヤングは『メリトクラシー』で「I.Q. + effort = merit」という定式を、「目新しくないもの」として用いている。(‘Introduction to the Transaction Edition’参照)

*11:「存在の大いなる連鎖」を視覚的に描いた、フランシスコ会宣教師兼彫刻家、ディダカス・ヴァレイスの作。/ By Didacus Valades (Diego Valades) - Rhetorica Christiana, via Getty Research, Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1688250

*12:ちなみに第一部のタイトル「優先順位、序列、地位 PRIORITY, DEGREE AND PLACE」とは、『トロイラスとクレシダ』におけるユリシーズの言葉。ギリシャ軍はトロイを攻めあぐねていた。ギリシャ軍司令官の一人であるユリシーズは、ギリシャ軍の統率が、すなわち自然と社会の摂理である「序列、優先順位、地位 degree, priority, and place」が乱れているためだと訴えた。アキレウスのような不敬な輩が、軍の統率を乱している。「トロイを生き延びさせているのは彼らの強さではなく、我らの弱さなのだ」(松岡和子訳『シェイクスピア全集23 トロイラスとクレシダ』 ちくま文庫 2012年 49頁)。

*13:「存在の大いなる連鎖」とは、非存在すれすれのものから絶対者に至るまでの階層的秩序のことを指す形而上学的観念である。中世を通じ十八世紀後半まで教育のある人々は、ほとんど疑わずにこの世界観を受け入れたとされる。(アーサー・O・ラヴジョイ 著, 内藤健二 訳『存在の大いなる連鎖』晶文社 1975年 61頁)

*14: アンブロージョ・ロレンツェッティ《悪政の寓意》  Info about artwork, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=2360176による。/いつの時代も民衆は為政者に人格を求めるのだろうが、前近代には、次のようなゴテゴテとした美徳のリストがあった。 「ロレンツェッティのフレスコ画は,何よりもまず善き統治と悪しき統治の本性を表しているのであり,それを統治者がもつべき資質ともつべきでない資質を表象するような人物を描くことでなしている.[中略]彼は《勇気》《正義》《大度》《平和》《思慮》そして《節制》といった徳性を表象する人物たちで囲まれている.彼の下には一群の市民がおり,彼らは長い紐で囲まれているのだが,その紐の両端はこの統治者の両手首につながれている.これは,統治者と民衆が調和的に結びついていることを象徴しているのだ.(デイヴィッド・ミラー 著, 山岡龍一・森達也 共訳『政治哲学』岩波書店 2005年 https://www.iwanami.co.jp/book/b256768.html

*15:ウールドリッジは、「西洋哲学の歴史とはプラトンへの膨大な注釈である」という哲学者ホワイトヘッドの言葉をもじっている。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%88%E3%83%B3

*16:本書は後半部で「金権メリトクラシー」という、メリトクラシーと富裕層とが癒着した支配体制を俎上に載せる。プラトンが「守護者」の私有財産を、必要最低限に抑えるよう論じたことは先駆的だ。「まず第一に、彼らのうちの誰も、万やむをえないものをのぞいて、私有財産というものをいっさい所有してはならないこと。」(藤沢令夫訳『国家(上)』 岩波書店 1979年 257-258頁)

*17:フェビアン協会が初期に用いた、羊の皮を被ったオオカミの紋章。かれらの政治改革の方法論を象徴したものだが、イメージが悪すぎるので後に放棄された。 /By Fabian Society - Own work, Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=58198206 https://en.wikipedia.org/wiki/Fabian_Society#Establishment

*18:“データベース『世界と日本』(代表:田中明彦), 日本政治・国際関係データベース

, 政策研究大学院大学東京大学東洋文化研究所” より引用。https://worldjpn.grips.ac.jp/documents/texts/pw/17890826.D1J.html

*19:風景画家リチャード・ラメルによる、1900年頃のハーバード大学の鳥観画。/By Richard Rummell - Collection of Arader Galleries, Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=15804203

*20:いわゆる「アメリカン・ドリーム」である。

*21: 「イレブンプラスを廃止せよ」。2012年、ウェストミンスターイギリス労働党事務所に貼られたポスター。/By Rathfelder - Own work, CC BY-SA 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=38782107 イレブンプラスは労働者の家庭に不利だとの批判がある。https://en.wikipedia.org/wiki/Eleven-plus#Controversy

*22:ロールズの不平等是正論の結論は、「格差原理」と呼ばれる。「[……]第二に、社会的・経済的不平等は、社会のなかでもっとも不利な立場におかれる成員にとって最大の利益になるということ(格差原理)」(齋藤純一, 田中将人 共著『ジョン・ロールズ 社会正義の探究者』(中央公論新社 2021年 67頁))

*23:TED(Technology, Entertainment, Design):「広める価値のあるアイデア」というコンセプトで、世界中の学者や起業家などが行う面白い講演を動画サイトで配信している団体。

*24:「エリート校は裕福な学生だらけ、貧しさの連鎖は続いている」GIGAZINE 2017年01月20日 https://gigazine.net/news/20170120-rich-student-go-elite-college/

*25: マイケル・サンデル/ By MeJudice - https://www.youtube.com/watch?v=klrLih-SujU, CC BY 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=20449527

*26:『実力も運のうち』第2章は「能力の道徳の簡単な歴史」という副題で、駆け足にメリトクラシーの歴史を描いている。

*27:私は未見だが、「2034 今そこにある未来」というイギリスドラマは『メリトクラシー』を意識しているのだろうか。「『IQスコアの低い国民から選挙権を剥奪する法案』など、英国流ブラックジョーク満載の過激な展開」があるらしい…。(「エマ・トンプソン、未来を辛口予測するドラマで過激な政治家に「彼女はモンスター」」/cinemacafe.net 2022年1月27日 https://www.cinemacafe.net/article/2022/01/27/76977.html

*28:メリトクラシー』 241頁

*29: 『異常論文』:SF作家である樋口恭介が考案・編集した、真面目な論文や小論っぽい体裁で書かれた架空の学術研究などを収録した書き物集(樋口恭介 編『異常論文』早川書房 2021年)。またはそういったジャンルを指す。なお『メリトクラシー』は、1957年にヤングの友人のツテで当初ロンドンのThames & Hudson社から刊行された。のちに同社は芸術関連の書籍で有名になるが、社会学は関心の範囲外だったという(原著、‛Introduction to the Transaction Edition’参照)。この情報は『メリトクラシー』という本の位置付けにとって示唆的である。

*30:マルク・レヴィンソン 著 松本裕 訳『例外時代 高度成長はいかに特殊であったのか』みすず書房 2017年

*31:メリトクラシー』 165頁

*32:IQテストでどこまで仕事の適性が測れるのか私は詳しくない。村上宣寛『IQってホントは何なんだ? 知能をめぐる神話と真実』(日経BP社 2007年)によると、よくできた知能テストは「専門的・管理的仕事」や「高度な技術を要求される仕事」の適性を、それなりの精度で予測するようだ(198-199頁)

*33:『実力も運のうち』304頁

*34:『実力も運のうち』310-311頁