リベラルアーツの扉:海外教養書を読む

田楽心&青野浩による読書記録

アンジェラ・ネイグル 著『リア充を殺せ! ―― 匿名掲示板とカウンターカルチャーは、いかにしてオルタナ右翼を育て上げたか』(2017年)/80点

紹介(評者・田楽心 Den Gakushin)

 2016年のトランプ当選を受けて、アメリカ人の多くが、2008年のオバマ当選時との「不可解なギャップ」に首をかしげた。なぜリベラルなアフリカ系大統領の次が、「ポリコレ破り」の常習犯トランプなのだろうか。この謎を解くには、「オルタナ右翼 alt-right」と呼ばれる勢力が台頭したあらましについて理解する必要があり、それにはオバマからトランプまでの期間にオンライン上で起きた数々の事件に注目する必要がある。――これが本書の著者であるアンジェラ・ネイグルが置いた前提である。オンラインにおけるトランプの支持拡大には、「ポリティカル・コレクトネス(政治的正しさ)」のような権威や道徳から逸脱することに楽しさを感じるオルタナ右翼が貢献したとされる。オバマの成功体感を模倣して「リベラルな文化人」を総動員し、トランプ支持者の半数は差別的な「嘆かわしい人々」であると非難したヒラリー・クリントンの選挙戦術に、オルタナ右翼たちはネット上の嘲笑で応えた。

 本書は主に2010年代を中心にオルタナ右翼が参加した、ネット上の事件と文化戦争を思想史的な方法によって描くことで、オルタナ右翼たちを生み出したオンラインカルチャーの暗部に迫る。焦点となる政治的テーマはフェミニズムセクシュアリティジェンダーアイデンティティ、人種差別、言論の自由ポリティカル・コレクトネスなどである。

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Amazon | Kill All Normies: Online Culture Wars from 4chan and Tumblr to Trump and the Alt-right | Nagle, Angela | Conservatism & Liberalism

 ネイグルが論証を試みる大きなテーマは、「オルタナ右翼」の特徴および成功の鍵が「逸脱 transgression」を好む感性と、この感性をネットを媒介にして表現し拡散するときに用いる、文章や画像上の「スタイル」にあったというものだ。ネットでの文化戦争、トランプ当選、オルタナ右翼の台頭ーーこれらには「逸脱」を好む指向が深く関わっている。

 ジョセフ・ヒースとアンドルー・ポターは『反逆の神話』2020年フランス語新版の序文で、「アンジェラ・ネイグルはこれ[ 右派の新しい文化的政治 ]について偉大な本(『リア充を殺せ!』)を書いて、オルタナ右翼が本質的にカウンターカルチャーの運動であることを多くの人は理解していないのだと指摘した」*1と述べている。本書を『反逆の神話』と併読すれば、右派と左派の双方に影響を与えるカウンターカルチャー的感性の問題点について、バランス良く知ることができるだろう。

原題

Kill All Normies: Online Culture Wars from 4chan and Tumblr to Trump and the Alt-right /Zero Books 2017年6月刊行

著者について

アンジェラ・ネイグル Angela Nagle:アイルランド出身のフェミニストにしてラディカルマルキストを標榜しているノンフィクションライター。社会主義系の雑誌『Jacobin』や左翼系総合誌『The Baffler』などに寄稿する。博士論文「現代のオンライン上におけるアンチフェミニズム運動」では、伝統的なアンチフェミニズムとは異なるオンライン上のアンチフェミニズムについて論じている。最も影響を受けた本は、フロイトの『文化への不満』*2

はじめに オバマの希望からハランベの死まで

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 2000年代末のオバマ時代から、トランプ当選にかけての期間に起きたオンライン上のリベラルに対するバックラッシュ(反動)。これには10代のゲーマー、ナチスの鍵十字を好むアニメオタク、『サウスパーク』を好む皮肉屋の保守、アンチフェミニストミーム(内輪ネタ)を生産し投げつける「トロール」(迷惑な荒らし・ネタ職人)といった、様々な変わり者たちが参加した。かれらに繋がりを生んだものは、リベラルの独善性と道徳的自画自賛を嘲る感性だった。リベラルな感性は、いかにして嘲笑の種へと変化して行ったのだろうか。典型的なパターンは以下のようなものだ。耳目を引き道徳感情を喚起するなんらかの事件が起こる。そして、事件にたいする直感的義憤から人々が非難や応援のツイートや投稿を競って行う。そうした素朴な社会的正義行動が、シニカルなネットユーザーから嘲笑を浴びせられる。こういった流れだ。ネイグルの挙げた事例から、キャンペーン動画『Kony 2012』と「ゴリラのハランベ Harambe 現象」の二つを紹介しよう。 

 『Kony2012』*4は、ウガンダで少年少女を誘拐し兵士や性奴隷に仕立て上げ、住民虐殺など数々の犯罪を引き起こした反政府勢力「神の抵抗軍 (LRA)」の指導者ジョセフ・コニーを2012年中に逮捕しようと一般大衆に呼びかけるチャリティー・キャンペーンのために制作された告発動画だ。ある調査によると、アメリカの若年層の半数が公開数日でこの動画のことを知ったという。動画は合計1億回以上再生され、サイトがクラッシュするまでになった。ツイッターフェイスブックでは、現在ならば「美徳シグナリング virtue signaling」(第五章)と揶揄されるような、悪党を非難する義憤の叫びとともに、欧米の若者を中心とする熱狂的な動画の「シェア」が起きた。しかし『Kony2012』がウガンダの人々や地域の専門家、ウガンダ国家元首さえもが批判する当事者置き去りの粗雑な出来栄えだったことや、キャンペーン収入の不透明な使途がひんしゅくを買った。社会正義の衝動に駆られて『Kony2012』の動画をシェアした人々は、恥ずかしそうにシェアを取り消すことになった。「美徳から不名誉へ」というこの流れは、2016年のハランベ現象まで繰り返され、ネットではシニカルな感性がメインストリームにまで進出してきた。

 ハランベ現象は、動物園のゴリラ・ハランベの付近に3歳の男の子が転落し、安全のためハランベが射殺された出来事に端を発する。人々は怒り狂い、「ハランベが死んだのは子どもの親のせいだ」と不手際を非難したり、両親は起訴されるべきだと主張した。オンライン署名収集サイト「Change.org」では「ハランベのために正義を(Justice for Harambe)」*5と題した、子どもの両親に責任を負わせるべきだとの請願書に数十万人分の署名が集まった。こうした集団ヒステリー的な道徳感情の爆発と、人間よりもゴリラを優先する順位付けへの違和感は、これに対する皮肉と冷笑のバックラッシュを引き起こした。ネットにはハランベをネタにしたコラ画像、替え歌、ビデオ、パロディが溢れかえった*6

第一章 リーダー不在のデジタル反革命

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 ほんの10年前まで、オンラインは祝祭に満ちた場所だった。「アラブの春」や「オキュパイ運動」はネットによって活性化され、主流派メディアも世界を好転させるカウンターカルチャー的革命の道具として新しいオンライン技術(スマートフォンSNS)に肯定的言及をしている。これら革命が失敗に終わり、革命において肯定的手段とされていたネットの匿名文化は、オンラインをニヒリズムと嘲笑溢れる場へと変貌させた。そして、ニヒリズムの世界から、既存の右翼とは似ても似つかない新しい右翼、オルタナ右翼が誕生する。

 オルタナ右翼は、IQ(知能指数)、ヨーロッパ文明の人口動態とその衰退、文化の退廃、文化的マルクス主義、反平等主義、反イスラム化などに関心を持っている。とりわけ我々が最も注目すべきことは、現行の保守派支配層への強い不満と、かれらにとってかわろうとするオルタナ右翼の志向である。オルタナ右翼は現行保守支配層のことを、「寝取られ保守 cuckservatives」と呼び軽蔑する。この用語は「現行の保守派はキリスト教的な軟弱文化に染まっており、非白人の侵略者に対し無力で、自民族の女/国家/人種を『寝取られ』るがままにしている」という不満を表している。

 ネットにおけるオルタナ右翼の「ミーム」の急拡大を理解するには、ニック・ランドやカーティス・ヤーヴィンのような有名イデオローグによる「暗黒啓蒙」「大聖堂」の抽象的メッセージのみならず、画像掲示板「4chan」や後の「8chan」での、画像やユーモアをベースとした直感的なコミュニケーションに注目する必要がある。「4chan」は日本の匿名掲示板「2ちゃんねる」の影響下で2003年10月誕生し、2011年には月間約7億5千万ページビューにまで成長した。「4chan」は徐々に右傾化していくが、これには政治系の板である「/pol/」が中心的役割を果たした。

 4chanの匿名ユーザーたちは、インターネットの流行ミームの数々を産み出すクリエイティブな人々だ。しかし4chanには、ショッキングなほどのミソジニー(女性蔑視や嫌悪)と、「アルファオス」と呼ばれるリーダー的男性に対して劣位にある男性をいみする「ベータオス」に過ぎないと自身を位置付ける、自虐的なアイデンティティ表現が漂っている(⇒第六章)。メディアの影響としては映画『ファイト・クラブ』や『マトリックス』、戦争ゲームを挙げることができる。4chanで交わされるコミュニケーションの特徴は、奇妙なポルノ、内輪ネタ、オタク用語、グロ画像、自殺願望、殺人願望、近親相姦願望、人種差別、女性蔑視といった逸脱的観念にある。4chanで意見投稿するとき通常は「アノニマス Anonymous」というハンドルネームが冠される。4chanは主として男性が匿名で、仄暗い感情を吐き出すことができる空間である。

 4chanを典型とするオンラインの女性蔑視的で皮肉や嘲笑を好む文化を、ネイグルは「チャン文化 chan culture」と呼ぶ。そしてチャン文化に染まった匿名ユーザーたちが引き起こしたネットイジメの数々が示されている。ネイグルが特に危惧するのは、ネットイジメを深刻化させるオンラインの女性蔑視文化である。典型的なパターンは以下のようなものだ。匿名ユーザーたちは、オンライン上の女性有名人に対し、その身体部位をネタにした性的な嘲りや、暴行のシミュレーションや脅迫を伝える。身体と生命に恐怖を感じた女性は、公の場から身を引いたり、キャリアを断念するなどのアンチフェミニズム版「キャンセルカルチャー」を強いられる。

 早い時期の事例では、IT技術系ブロガーでジャーナリストのキャシー・シエラの事件が有名だ*8この事件では首を絞められるシエラの顔の合成画像や、下着で猿ぐつわされた合成画像を送りつけることや、レイプ予告、家族の殺害予告などが行われた。このため、シエラは2007年に有名な技術カンファレンスの欠席を余儀なくされた。しかもシエラが、このような激しい「アンチ」活動を受けた理由は判然としない*9。ブロガーがコメント欄を管理できるようにしようとの呼びかけを、彼女が支持したことが、「表現の自由を求めるリバタリアンハッカー倫理への侵害である」としてアンチを怒らせたとの説明もある。いずれにしても彼女はブログをやめ、公の場から姿を消さざるを得なくなった。

 ゲーム批評家のアニタ・サーキジャン(Anita Sarkeesian)の事件では、アニタがゲーマー向けにフェミニズム的なメディア批評の基本概念を、動画でかなり温和に解説したところ、彼女は数年間レイプや殺害の脅迫に苛まれることとなった*10。これは成熟した読者層を抱える映画批評や、文学批評の世界では考えられないことだ。後に「ゲーマーゲート」と呼ばれ有名になった文化戦争では、表現の自由を掲げるゲーマー、アンチフェミニスト、右派のチャン文化ユーザー、極右といった、以前なら別物でバラバラだった勢力が、「チャン文化」を媒介にして、共通の敵に対しまとまるようになった。共通の敵とはフェミニズムである。

 ネイグルは、シエラのような女性が受ける被害は「日常茶飯事」化していると言い、シエラは「かつて自分の身に起きた事が軽く見えるほどに、今の状況はほとんどの場合で悪くなっている」と言う。女性に対する激しい攻撃の背景には、「男の世界」に踏み込んできた女性を「ミーハー/よくいる女 basic bitches」といったズレた異物と見下し、排除したがる男性中心のサブカルチャーが関わっていると、ネイグルは第六章や第七章で論じている。

第二章 逸脱のオンライン・ポリティクス

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 この章では人文思想史の枠組みを用いて、オルタナ右翼とはロマン主義から続く「逸脱 transgression」を好むスタイルの継承者であると論じられている。1960年代以降の社会自由主義的な価値観において、権力や法律や主流派道徳からの「逸脱 transgression」は美徳であると受け止められてきた。「感性」に強く関わる美術批評においても「逸脱(侵犯) transgression」の観念は讃えられ、批評家は何らかの逸脱行為を無条件に支持するか、逆に逸脱を批判する側に立つかの二択を迫られていた。逸脱を批判すれば「陳腐で保守的だ」とラベリングされるリスクに批評家は晒されたのである。ある批評家は「この傾向によって芸術は、非合理的なものを追及するあまり、不快で、否定的で、虚無主義的なものになり果てている」と批判した。

 この章でネイグルは次のように主張する。「オルタナ右翼のもつ感性は、旧来の右翼保守運動の焼き直しだ」と言う人がいるが、それは違う。オルタナ右翼カウンターカルチャーや逸脱、体制不服従など、少し前まで左派の人々が好んできた「禁じられていることは禁じられている!」という左翼の「1968年スローガン」と親和的な運動である。オルタナ右翼のアイコンとなってしまった「カエルのぺぺ」画像を用いる荒らしや、遊び半分でネットイジメを行う連中は、少なくとも18世紀の作家マルキ・ド・サドの著作に遡ることができる思想史的伝統に根ざしている。

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19世紀パリのアバンギャルドシュルレアリスム、戦後アメリカにおける女性の解放、そして批評家が1990年代の「男の暴走映画」と呼び、チャン文化やオルタナ右翼が愛好する映画『アメリカン・サイコ』や『ファイト・クラブ』に至るまで、逸脱を好む伝統は連綿と受け継がれてきた。

 オルタナ右翼の有名人で、その思想の伝道に大きな役割を果たしているニュースサイト「ブライトバート」の編集者マイロ・ヤノプルスは、ネット右翼の新しい波を統べる感性を「逸脱的  transgressive」と呼び讃えることを好む。マイロは定期的にオルタナ右翼とパンクを比較し、「保守主義は『新しいパンク』」であり、それは「逸脱的で反体制的で楽しいものだ」と語る。なおマイロは成人男性と13歳少年との小児性愛を擁護する発言が流出したことで、そのキャリアに深手を負った*13(本書刊行時点)。

 オルタナ右翼の「ミーム」[ネタやヘイト文章や画像の投稿]にみられる「逸脱」志向は、「逸脱」スタイルと左派の思想や社会運動との結びつきが、歴史的に同盟した時期がたまたまあったに過ぎず、本来は偶然的結合に過ぎなかったことを示している。つまり右派も逸脱スタイルを好きになれるのである。

 オルタナ右翼と逸脱志向の思想史的なつながりを見てみよう。ドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェによるキリスト教道徳批判の響きは、キリスト教道徳に基づく「寝取られ保守」を批判する現在のオルタナ右翼から強く感じられる。またドストエフスキー罪と罰』のラスコーリニコフによる殺人行為の自己正当化や、フランスの作家モーリス・ブランショの「私の喜びと比べれば、他人の最大の苦しみは常にどうでもよくなる」という洞察、フランスの哲学者ジョルジュ・バタイユの侵犯/逸脱に関する思想に対応するものを、4chanの反道徳的な文化から見て取ることができる。

 「狂気」について考えてみよう。4chanの荒らしや道徳的タブー破りの文化は、部外者からすれば「狂気」と映る。英ガーディアン誌は、4chanを「きちがいじみていて、子供っぽいが… おもしろく、こっけいで、驚くべきものだ ("lunatic, juvenile... brilliant, ridiculous and alarming.")」と評価した*14。ところで映画『カッコーの巣の上で』からR.D.レインミシェル・フーコーに至るまで、「狂気」とは抑圧的体制への順応拒否であり、主流派からの「逸脱」であるとの認識があったではないか。

 まとめるとオルタナ右翼の「思想」は、伝統的左翼の平等主義とも、伝統的右翼のキリスト教道徳とも異なる。それはロマン主義から続く逸脱好みのスタイルが結実したものである。

第三章 オルタナ右翼グラムシ主義者たち

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 この章でネイグルは、オルタナ右翼のことを「文化闘争に傾注し成功した『グラムシ主義者』である」と位置付け、オルタナ右翼のメディア戦略を論じている。アントニオ・グラムシはイタリアのマルクス主義者であり、階級闘争における「文化」的次元の重要性を指摘した。グラムシには「政治的変化は、文化と社会の変化に従う」とのスローガンがある。「ブライトバート・ニュース」の創設者アンドリュー・ブライトバートは「政治は常に『文化の下流』にある」という、グラムシとよく似た言葉を残した。これはマイロもよく引用した言葉である。

 オバマ時代、テレビや新聞の主流メディアはかつての威信を失った。代わりにオルタナ右翼は、インターネット文化とオルタナティブなメディアを一から作り上げて影響力を高めてきた。これがトランプ当選前に起きていた地殻変動である。「FOXニュース」から『ナショナルレビュー』までの保守系メディアを含む、ほぼすべての主流ニュースメディアはトランプに反対した。にも関わらずトランプは大統領に当選した。この出来事ほど主流メディアの失墜と、オルタナティブメディアを活用した戦術の有効性を象徴する出来事もないだろう。「ブライトバート・ニュース」の編集者兼論客であるマイロをオルタナ右翼のスターの座に押し上げ、同じく会長兼論客であるスティーブ・バノンをトランプの右腕(首席戦略官)として米国政治のトップまで送り込んだのは、ブライトバート・ニュースというオルタナティブ・メディアだったのだ。

 マイロ・ヤノプルスは、ユダヤ系のゲイという出自ながら、オルタナ右翼を積極的に擁護し、政治的正しさ、フェミニズムイスラム教、ブラック・ライブズ・マター、そして西洋のリベラリズム全般を批判し、オルタナ右翼の「アイドル」となった。マイロのようなオルタナ右翼の有名人たちは、なにより文化左翼アイデンティティ・ラディカリズムの不条理さを暴くことでキャリアを築いていった。画像で4chan風の皮肉なミームを製造する思春期のクソ投稿者たちも、こうしたオルタナ右翼の援護射撃に加わり、敵対勢力に嫌がらせを行った。

 結論。オルタナ右翼グラムシ的な文化戦略を精力的に実践し、本家本元の文化左翼よりもうまくやりおおせた。

第四章 ブキャナンからヤノプルスまでの保守文化戦争

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 この章はアメリカ政治史を主に扱った内容である。

 ヤノプルスはトランプを、パット・ブキャナン以来の「真に文化的な人物」であると讃える。リーダーが行った政策の結果よりも文化的メッセージが重要になっている昨今のアメリカ政治において、ヤノプルスの評価は注目に値する。ブキャナンは1992年大統領選の共和党予備選挙で、いまのトランプと同じく「アメリカ・ファースト」を掲げて戦った保守政治家だ。そして冷戦終結後の「新世界秩序」を掲げたグローバリスト、ジョージ・H・W・ブッシュに敗れた。また多文化主義を推進する左派リベラルに対しては、キリスト教の文化防衛を掲げて宣戦布告した。すなわちヤノプルスはトランプの選挙戦を、左派および保守グローバリスト(ネオコン)に対する文化戦争の雪辱戦と位置付けた。

 しかし、ブキャナンはペイリオコン(旧保守主義者)に分類され、愛国心、国家、家族、コミュニティ、文化の継承を重視する紛れもない伝統保守である。対するヤノプルスの発言の多くは、ネットの「荒らし」行為への指向を抜きにすれば「古典的リベラリズム」に過ぎず、ブキャナンと大きな違いがある。ヤノプルスという人物は、「『家族は大切だ』というよりも『ファイト・クラブ』に近く」、「エドマンド・バークよりもマルキ・ド・サドに近い」。ヤノプルスと4chanにいる彼のファンは、多くの意味で完璧にポストモダニズムの子孫である。すべての発言が皮肉や遊び心、文化的な含蓄や引用に満ちている。4chanのゲイやトランスジェンダーを含むポルノ画像やネタ画像から明らかなように、4chanはブキャナンのような伝統的保守主義の子孫というよりはむしろ、性革命のシロモノである。ヤノプロスが自身と立場を重ねたはずのブキャナンは、「地域共同体がポルノ画像を検閲する権利を支持する」と訴えた伝統派だ。

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 最近のネット右翼の勝利は、右翼のアイデンティティ・ポリティクスが60年代左翼の「逸脱」「カウンターカルチャー」スタイルを取り込んだ事による勝利である。かつて保守主流派だったネオコンオルタナ右翼は水と油だが、それぞれの「強さの秘訣」は奇妙に類似している。ネオコンとは、もともとは左派のトロツキストが保守派に転向したものだ。初期のネオコンは頭脳明晰で、左派的な思考を熟知しており、そのため左派に対して有効な攻撃を仕掛けることができた。同様にして、マイロのようなオルタナ右翼は、左派の逸脱志向やトガり具合を競うセンス、カウンターカルチャー・スタイルの美的価値をよく理解している。このため古臭い保守派にはできないやり方で、オンラインにおける左派との文化闘争を優位に進めることができた。

 結論。オルタナ右翼とは「右派のカウンターカルチャー」である。ヤノプルスは次のように語っている。「私にとっての『オルタナ右翼』とは、主に進歩的左派による嘲りと発言の取り締まり、権威主義、文化的抑圧に対する文化的反発です。トランプも私もそうですが、主に90年代に宗教右派がやっていた思考や発言に対する取り締まり行為を、今の進歩的左派がやっていることに対する反発なのです」。先ほどのブキャナンの「ポルノ画像検閲」論と比べてみたい。ヤノプロスが批判する文化警察的な左派の現状については、続く「第五章」で論じている。

第五章 「Tumblr」からキャンパス・ウォーズへ:美徳のオンライン経済における希少性の作り方

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 この章は「オルタナ右翼」という本題からやや離れて、左派のオンライン上のアイデンティティ・ポリティクス文化を論じている。ネイグルは、彼らオンライン左派を暫定的に「タンブラー・リベラリズム Tumblr-Liberalism」と名付けている。左派の主要勢力であるタンブラー・リベラルの目標は、自身の「関心のある事柄」を探求するため「安全な空間 safe space」*19を擁護することにある。

 タンブラー・リベラルにとって「関心のある事柄」とは具体的には、ジェンダー流動性精神疾患があること、身体障害があること、少数派人種であること、文化的アイデンティティ、インターセクショナリティ(多様な抑圧の存在と被抑圧者性を認識し、皆で問題意識を共有し連帯すべきだとの思想)といったことである。タンブラー・リベラリズム「woke(人種問題や性差別などの社会的不正に覚醒すること)」と方向性を同じくする概念と言える。

 「安全な空間」を実現するために、大学キャンパスでは物議を醸す講演者に講演の機会を与えない「ノープラットフォーム」化の実施や、学生にショックを与えるかもしれない意見や映像を取り上げるときは事前に予告し、教室からの学生の退出を許可する「トリガー警告」*20が用いられている。

 若い世代のタンブラー・リベラルは、保守派から「スノーフレーク」(雪のかけらのように壊れやすい)と揶揄される。スノーフレークの学生は、傷つきやすい心を守るために、ヤノプルスが批判する「思考や発言に対する取り締まり行為」(第四章)に訴える。現在の大学では「ジェンダーは2つしかない」といったリベラルの主流派が認めない「異端」の主張を扱うときには、学生にショックを与えないために「トリガー警告」を行わなければならない。ちなみに、Facebookは2014年時点で50個以上の性別を選べるようにした。またTumblrのとあるスペースでは、数百に及ぶジェンダーのリストと説明が掲載されている。

 政治学者アドルフ・リード・ジュニアが語るところでは、リベラルはもはや実際の政治の効果を信じておらず、ただの「苦しみの証人」である。苦しみ、弱さ、脆弱性を崇拝することがリベラルの美徳となった。脆弱性の崇拝は「タンブラー Tumblr」で活発に行われており、このサイトは左派アイデンティティ・ポリティクスの前衛活動拠点になっている。SNSで公然と「自分を責めて見せること」は、新しいアイデンティティ・ポリティクスの中心的特徴である。特に白人、男性、異性愛者、シス(性自認と生まれつきの身体の性が一致していること)、健常者の属性を持つ人は、「自分の特権をチェックする」ことに喜びを感じる。

 タンブラー・リベラルは一見すると、懺悔や贖罪に熱心な宗教信者のようで、善良で大人しそうに思える。ところがネイグルは、タンブラー・リベラルは「カエルのペペ」で遊ぶオルタナ右翼のように、並外れた悪意と攻撃性を持って行動することが多いと述べる。マルキストにして批評家のマーク・フィッシャーによると、「キャンセルカルチャー」に熱心な左派は、「破門して非難したいという司祭の欲求、間違いを発見した最初の人物であると思われたいというアカデミックな衒学者の欲求、そして、群衆から頭一つ抜け出て、流行の第一人者になりたい欲求によって突き動かされている」。ネイグルは「キャンセルカルチャー」の最も奇妙な特徴は、「脆弱性」のひけらかしとイジメと独善的興奮とが混在していることだと言う。

 ネイグルはフィッシャーの主張に一つ考察を加え、「誰かを道徳的に非難する」という振る舞いに観客が見出す道徳的「美徳」が、左派のキャリアや社会的成功を左右する「通貨」となっていると指摘する。初期のTwitterでは、人種差別や性差別、同性愛嫌悪を示す人物に対して独善的な、あるいは皮肉混じりな糾弾をすることが、ソーシャルメディアで名声を得るための最も手っ取り早い方法だった。この「見返り」の誘惑もまた文化戦争を激化させた。しかし誰もが「見返り」という秘密に気付いてしまったために、「美徳の通貨」の価値の「切り下げ」が起きた。恐らくその結果、あからさまな差別主義者ではないが通貨獲得のライバルとなりそうな左派を糾弾し、蹴落とす内ゲバが激しくなった。バーニー・サンダースの支持者を「女性蔑視の社会主義者  brocialists」であると非難するのは勿論のこと、女性解放のための戦いに人生を捧げてきたフェミニストの活動家が、知的トレンドが変わったことで「差別主義者」の烙印を押され、講演をキャンセルされる事件さえ起きている。

 一部の右派はこうした「キャンセルカルチャー」の標的になることを受け入れ、積極的に反撃することで得点を稼いでいる。対照的に左派でキャンセルされた人は困惑したり、臆病になったり、謝罪したり、大人しくなった。左派の頭脳がタンブラー化したことは、左派自身にダメージを与えており、このダメージの影響は長引くだろう。

第六章 「男性圏」を覗いてみると

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 アンチフェミニズム的なネット上のサブカルチャーをまとめて「男性圏 the Manosphere」と呼ぶことがある。この章は男性圏の暗い面に焦点を合わせる。

 男性圏の文化のなかで一貫した関心事の一つが、「ベータオス」と「アルファオス」の区別だ。この概念はチンパンジーなどの階層性社会では、群れの中で権力的にトップに立つオスと、それ未満のオスとの間にヒエラルキー(序列)があることに着想を得ている。女性がいかにアルファオスを好み、ベータオスを冷たくあしらうかを「ベータ」たちは熱心に語り合う。

 テクニックを使えば思惑通りに女性を誘導できるとする[「恋愛工学」っぽい]合理的ナンパ術にも人気がある。フェミニストの間で悪名高いRoosh Vというナンパ術のカリスマ作家は、「フェミニズムが文明を衰退させる」との信念に賛同して、オルタナ右翼に傾倒するようになった。Roosh Vは人権や平等思想に基づく男性権利運動家も、MGTOW運動(後述)も、どちらも「性的敗者」「苦い童貞」に過ぎないと見下す*22。Roosh Vの「レイプを止めるためには」という奇妙な記事では、「もしレイプが合法化されれば、女性は自らの振る舞いに慎重になるから、法律が施行されたその日にレイプは無くなる」と論じる。

 アンチフェミニストは一枚岩ではない。例えば穏健派と言える「ミグタウ MGTOW Men Going Their Own Way」運動は、異性愛男性による女性からの分離主義であり、何段階かの修行プロセスを経ることで女性からの「解脱」を目指す。MGTOWは、ゲイでオルタナ右翼マイロ・ヤノプルスが書いた「性からの脱出(the Sexodus)」という記事で有名になった。ヤノプルスは、男性が女性、ロマンス、セックス、結婚から逃げるのは、フェミニズムが蔓延した結果であると述べている。

 オルタナ右翼団体「プラウド・ボーイズ」は、アンチ政治的正しさ、銃所持の権利、人種的罪悪感の否定、自慰行為の禁止、「専業主婦たちを畏敬せよ」といった主張を掲げ、2021年の連邦議会議事堂襲撃事件など、数々の暴動に関与した。プラウド・ボーイズもMGTOWのように何段階かの修行プロセスを持ち、この中には「朝食用シリアルの名前を5つ言えるまで殴られ続けなければいけない」という奇妙な修行もある。

掲示板サイトRedditの「インセル incel」フォーラムでは、「自分の部屋で4時間、ただ壁を見つめていた」のような投稿が溢れ、オルタナ右翼化する男性の実存的危機が垣間見える。Youtubeのアンチフェミニズム動画のコメント欄には、自分を冷たくあしらう「女さん」への恨みつらみが書き込まれている。

 ネイグルが特に注目するのは、F・ロジャー・デブリンというオルタナ右翼の作家の歴史観である。デブリンによると、性革命によって「生涯を誓い合う結婚」が衰退し、男女とも大きな自由を得た。しかし幾つになっても本物の出会いを求め続ける思春期が続くことになってしまい、大人になり切れない大人が続出。またモテる男とモテない男の恋愛格差が深刻化した。エリート男性は性的な選択のチャンスが広がったが、下層男性は独身率が上昇した。性的ヒエラルキーの下に置かれることへの不安と怒りは、下層男性が女性や非白人に対し、強硬な主張を行う動機となっている……とデブリンは言う。

第七章 よくいる女、リア充マスゴミ

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 ネイグルがこの章で論じるのは、オルタナ右翼のスタイルである逸脱志向やカウンターカルチャー志向と、女性蔑視の文化がいかにして結び付くかである。議論のなかでネイグルが言及する「サブカルチャー」は、「カウンターカルチャー」とかなり重なっている。カウンターカルチャーが主流からの「逸脱」を志向するスタイルであるとすれば、サブカルチャーの原義は、主流に対する「差別化」を志向するスタイルであると言える。そして、サブカルチャーは、新たにサブカルチャーへと参入したがる女性を「主流・大衆的流行への同調を示す存在」や「主流派に従属するもの」とみなし、差別化の一環としてしばしば嘲笑したのである。ネイグルは、このサブカルチャーに内在する「女性蔑視」がオルタナ右翼に継承されていると指摘する。

 『ガーディアン』から『フィナンシャル・タイムズ』に至るまで、2016年の大統領選挙の結果に理解を示す記事は、「トランプの当選は、『取り残された』と感じる普通の人々の意見を反映したものだ」と分析した。しかしオルタナ右翼が「大衆の心情」の側に立ってきた大衆保守であるとのイメージは、トランプ当選後に広まった歴史修正主義である。

 実のところ「人間嫌い」は、オルタナ右翼の言説で支配的な特徴のひとつである。オルタナ右翼の感性はニーチェ的な大衆蔑視と、よりカウンターカルチャー的な『ファイト・クラブ』とを混ぜ合わせたようなものだ。人間嫌いで女性嫌いのニーチェが、大衆に女性的特徴を投影していたことは指摘する価値がある。チャン文化のトロール(荒らし)が社会問題になった当初から、保守派主流メディアはこれに道徳的非難を浴びせていた。保守系のFOXニュースは4chanを「インターネットのヘイトマシン」、「反社会的で口汚く、いまだ母親と同居する人間嫌いの連中」と厳しく非難していたのだ。FOXとは対照的に進歩的なアカデミアは4chanにあまり批判的ではなく、祝賀に近い反応を示していた。メディア研究者のホイットニー・フィリップスは4chanに同情的で、4chanの「/b/」板のトロールたちが「権威に反逆している」こと、「支配的なメディアの語りを転覆させている」ことを評価した。

 2014年にもなると、4chanには極端な人種差別主義者や女性差別主義者によるコンテンツで溢れていた。その時になってもなお、「アノニマス」の研究で知られるネット人類学者のガブリエラ・コールマンは、「ネットの掃きだめからアノニマスが生まれたことは驚きと希望の物語である」、「トロール(荒らし)から始まったものの大部分は、世界に良い影響を与える力になった」と肯定的に評した。今ではその恐ろしさが十分に露呈した4chanオルタナ右翼の文化を、当時カウンターカルチャーを内面化した進歩的な人々は、ロマンチックで反覇権主義的なものであるとの理由で容認していた。  

 サブカルチャーの共同体においては、仲間同士だけで通じる微妙な感性を内面化し内輪ネタを使いこなすことが、あいつは「普通のやつら」や「リア充」ではないと差別化し、サブカル仲間であると認められるための条件となる。メインストリームの感性を持ったまま、ギークサブカルチャーへと仲間入りしようとする女性には、浅はかで、虚栄心が強く、無知な少女であるとレッテルが貼られる。「サブカル者」が彼女らを「よくいる女/ミーハー(basic bitches)」などと呼称しバカにすることは、男性優位のギークサブカルチャーの中心的なセンスである。「オルタナ右翼」という用語を産み出したと自称する白人至上主義者のリチャード・B・スペンサーは定期的に、人種分離主義の復活こそが、エッジでクールだと認められない人のことを「よくいる女 basic bitchesのリア充 normies」だと罵倒する。「サブカル者」の差別化志向と女性蔑視が、オルタナ右翼の政治的発言のなかに働いている。

 こうした差別的感性は、元をたどれば50年代と60年代の男性の反逆文化をルーツとする。当時そこでは、女性は家父長や体制に従う「適合主義的な(主体的意思を持たない)」存在とみなされたり、結婚や家庭生活による安定を強いることで男の反逆する意欲を骨抜きにしてしまう存在とされていた。

結論 「ネタだよ」と言われてももう笑えない

 大学キャンパスでオルタナ右翼のヤノプロスが論争を仕掛け、何度も反論を求めたときに、文化左翼はまったく反論できなかった。かれらは反対意見をパージする閉ざされた文化世界に生きており、仲間内の専門用語を覚える以外は、異論を理性的に反駁するほんとうの知性を鍛えることができなくなってしまっていた。ヤノプロスがカリフォルニア大学バークレー校で講演を予定したとき、左翼学生たちは言論で挑むよりも暴動を起こす道を選んだ*24。結果的にヤノプロスは、左派の知的腐敗を暴くという成功をまんまと達成した。

 他方でオルタナ右翼は、ネットでますます、人種・女性・少数民族への中傷を拡散させている。またトランプやオルタナ右翼を批判する旧来の保守に対する中傷もすさまじいものになっている。なにしろ敵対すれば荒ぶる無数のオルタナ右翼を相手にすることになるのだから、左右を問わずを批判的思考や言論はますます委縮していくことが予測される。

 かつて進歩的左派は、アラブの春やオキュパイ運動といったデジタル革命を見て、ネットワーク上の嫌悪感や反感の広まりが世界を良い方向に変えるだろうと、1990年代の頃を思い出すサイバーユートピア思想とリーダー不在のデジタル革命に興奮した。しかしこうしたユートピア幻想からほんのわずかの年月で、我々はどれほど遠くまで来てしまったことだろうか。

評価(評者・田楽心)

 最初にガッカリさせるかもしれないが、本書を手放しで絶賛する層は限られるだろう。

 まずカウンターカルチャーやサド文学、フーコーを好むような文化左翼層にとって、第二章や第四章の議論は居心地が悪く、罪悪感や反感を生む可能性が高い。なにしろネイグルは<文化左翼に伝統的な『逸脱』好みの感性が、オルタナ右翼を生む土壌になった>と論じているのだから。ネイグルは「カウンターカルチャーは新しい右翼のスタイルになった」とも述べる(第四章)。

 表現規制反対派にとって耳障りな議論もある。<インターネットのサブカルチャーのあちらこちらに「有害な男らしさ」と女性蔑視が漂っている>といった見解が、本書のいたるところで窺えるからだ。この見解を基に「女性にとって『安全な空間』を作るために、男性の意識改革とサブカルチャーへの表現規制が正当化される」という主張を行うことも可能だ。ただしネイグルはこれに反対の立場だろう。確かに第一章で取り上げられるアンチフェミニスト版「キャンセルカルチャー」が引き起こす女性被害は深刻で、こちらの「キャンセルカルチャー」の害悪も軽視できない。

 加えてアイデンティティ・ポリティクスに熱心な左派にとっても都合が悪い。なにしろ第五章で徹底的に、「タンブラー・リベラリズム」による言論抑圧や魔女狩り的振る舞いを批判しているのだから。

 このようなわけで、本書は一つの方向に突っ走るためのアジテーション本として利用するには歯切れが悪い。勿論それは良いことで、静かに反省しつつ読む「教養」に向いている。

 次に「逸脱」を志向する感性を中心に据えて、オンライン上で起きた文化戦争の様々な特徴を論じていくネイグルの目論見について。ネイグルが明示的に語っていることではないのだが、このプロジェクトは「逸脱」とともに「『逸脱者』を自称することでの他者への攻撃性」をも様々な事例を挙げて指摘している。ここで言う(自称)逸脱者とは、自分のことを「主流」「普通」「常識」「大衆」「リア充」「素人」から「逸脱」した、「日陰者」「おたく」「ギーク」「ナード」「皮肉屋」「冷笑家」「スノッブ」「異端派」「非モテ」「非リア」「陰キャ」であると自己規定するような、サブカルチャーカウンターカルチャー的自意識のことである。一般に、こうした逸脱者が自分のことを「世間から弾かれた被害者である」と主張することはあっても、自身の加害性をすすんで語ることは少ないように思われる。このためネイグルの批判は寝耳に水かもしれない。

 具体例を挙げると、最近まで文化戦争の勝者であったリベラルの独善的振る舞いを皮肉る異端派の感性から、アンチフェミニズムオルタナ右翼が育った。日陰者のギーク文化から「よくいる女」へのミソジニーが育った。主流メディアを軽蔑するスノッブな左派の自意識が、同じように「マスゴミ」を罵倒する匿名掲示板の差別的トロール(荒らし)に対しては甘々だった。女性にモテない恨みつらみから、連続射殺犯が生まれた。

 以上のように本書からは、「『逸脱者』を自称することでの他者への攻撃性」という統一テーマが浮かび上がってくる。逸脱を肯定するサブカルチャー共同体から「寛容」とは反対の行動が出てきたのである。本書の原題にある「Normies」には、「ニワカ」「一般人」「リア充」「マニアックな内輪ネタを理解していない人」といった意味がある。したがって原題「Kill All Normies」は、サブカルチャーカウンターカルチャーマインドを持つ逸脱者が、「わかってないやつら」へと向けるルサンチマンや攻撃性を表したものであるとの見方が成り立つ。

 もちろん「『逸脱者』を自称することでの他者への攻撃性」を問題視することは、「Normies」の側には攻撃性がないとか、問題がないと言うことではない。心理学の「内集団バイアス」の理論は、いかなる集団でもそれが集団である限りにおいて、別の集団に対して不寛容になってしまう危険があることを示している。自分たちのことを「被害者」であると規定する意識が強くなりすぎれば、その集団のメンバーは内集団バイアスを自覚し、反省する契機に欠けることだろう。また精確に言うならば、誰もがある側面では逸脱者的な特徴を持っており、別の側面では「Normies」のはずだ。自分がいつも常に完璧に「Normies」の側にいると信じられる人は少ないだろう。このようなわけで「逸脱者の攻撃性」の指摘は、普遍的テーマであるものの普段の生活では自覚しにくい問題への有益な助言であると言える。作家ジョン・ファウルズが指摘するように、「異常と通常」あるいは「抜きん出ていること/平凡さ」の境界は、人と人の間に引かれるべきではなく、自己の内面に引かれるべきである……のかもしれない。

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 ネイグルが「最も影響を受けた本」にフロイトの『文化への不満 Das Unbehagen in der Kultur』を挙げたことは示唆的だ。『リア充を殺せ!』の問題意識に引きつけて紹介すると、『文化への不満』の内容は「法や道徳といった文化は抑圧的でうざいが、文化がないと人々は破壊衝動を解放し、社会はバラバラになってしまう」というものだ。ネイグルのカウンターカルチャーオルタナ右翼へのスタンスを暗示しているのかもしれない。

 次に「匿名掲示板」とそのユーザーたちの「シニカルな態度」を論じた先駆として、北田暁大『嗤う日本の「ナショナリズム」』(NHKブックス 2005年)に触れておきたい。同書では2ちゃんねる的コミュニケーションは、「内輪での接続指向」と「アイロニカルな視線」のセットであると指摘されていた*26。二つの用語は例えばマスコミの流すニュースをネタに、2ちゃんねらにしか通じない内輪な言い回しやアスキーアートで、皮肉なツッコミを入れながらコミュニケーションを取る事態を指すものだ。日本の「2ch」から海外の「4chan」への影響は、戦後の日本において、サブカルチャーが非常に多様で洗練された結果、言語の異なる海外にまで強い影響を与えた事例であると見なせる。他方で「2ch掲示板」の構造が、特定のコミュニケーション・スタイルを誘発しやすいのだという「アーキテクチャ論」の見方がより妥当だろう。

 北田の著作は単に研究として先駆的だったことに留まらない。これは、社会現象としても日本が先駆的存在であったことの一つの証左となっているのである。一般的に、社会現象や文化的流行は、日本が欧米の流行を「後追い」することがほとんどだが、オルタナ右翼が中心となって活動したニヒリズムの匿名掲示板文化では日本が先行し、アメリカにおいて模倣されているのである。

 2ちゃんねるにおいては、内輪性を再生産するコミュニケーション――内輪の空気を乱さずに他者との関係を継続すること――を続けることが至上命題となっており、ギョーカイは共同性を担保する第三項の位置からコミュニケーションの素材へと相対化されている。たとえば、夕刻のニュースを実況中継するスレッドをみてみればよい。そこでは、安っぽい正義感を振りかざすレポータ―開かずの踏み切りを無理やり渡る人たちにマイクを差し向け「そんなことやっていいと思ってるんですか!」などと叫ぶ――や、コメンテーターを揶揄する書き込みが、2ちゃんねる固有の語法にそって同期的になされている。「2ちゃん語」「アスキーアート」を駆使したアイロニカルなコミュニケーションを首尾よく繋いでいくことが、「住人」=2ちゃんねらーたちの主要関心なのであって、テレビ(や新聞)はコミュニケーションのための素材にすぎないのだ。(同書203頁)

『嗤う日本の「ナショナリズム」』で描かれた「安っぽい正義感」を「素材」としてコミュニケーションのネタにする2ちゃんねらの皮肉っぽいコミュニケーションは、「ポリコレ破り」を好むチャン文化やオルタナ右翼的感性だ。また逆に『リア充を殺せ!』における『Kony2012』やゴリラのハランベ現象における皮肉な嗤いは、2ちゃんねら的だ。あるいは第七章で主流メディアの「権威に反逆」し「支配的なメディアの語りを転覆」させるチャン文化は、2ちゃんねらが「アイロニカルな視線」(北田)から「マスゴミ」批判をする姿と違和感なく重なる。内輪ネタ(ミーム・カルチャー)に耽溺し、主流派の欺瞞や堕落を暴くスタイルにおいて、日本の匿名掲示板文化(というよりその制度)は、アメリカにそのまま制度的に持ち込まれた可能性が高い*27

 西洋社会思想史の見地から「皮肉な感性」と社会思想との関係を論じた類書として、ドイツの批評家ペーター・スローターダイク浩瀚な書物『シニカル理性批判』(1983年)がある*28スローターダイクによると、古代ギリシャの哲学者ディオゲネスに典型的に見られた皮肉や風刺の精神とは、元来は伸び伸びとした「賤民の生き方」そのものだった。ディオゲネスは哲学仲間の仰々しい態度や概念信仰を茶化し、狭い習俗や物質への執着を離れて奔放に生きた。樽とも桶とも言い伝えられる貧相な「家」を寝ぐらとし、アテネの市場へと繰り出すと公衆の面前で糞尿を垂れ流し、自慰を行った。ディオゲネスの学派が「犬儒学派」と呼ばれるのは、「犬のような」こうした振る舞いに由来する。なお「シニカル cynical」という言葉は「皮肉な、ひねくれた」を意味するが、語源を辿れば「犬のような」「犬儒学派の」といった意味になる。つまりシニシズムの起源は、文明の常識から逸脱したディオゲネスのごとき半獣人が奔放に振舞うことで、結果的に人間社会における常識や権威や権力の威光が揺らぐことにあった。ある日アレクサンドロス大王ディオゲネスを訪問し、「何なりと望むがよい」と恩をかけたところ、日向ぼっこをしていたディオゲネスは「陰になるからそこを退いてくれ」と大王に向かって答えたという。当時の最高権力者に忖度しないこの態度。ディオゲネスというほんものの逸脱者にはアレクサンドロス大王も感服し、もし自分が「アレクサンドロスでなかったらディオゲネスでありたい」と語ったと伝えられる*29

 ところが後の帝政ローマ時代には、シニシストの生き方と知性との分離が進行した。「皮肉」は教養人がセンスを示し、論敵を貶めるための知的ツールとなった。教養保守層の声を代表するルキアノスシニシズムは、権威者や権力者に対してではなく、権威や権力を批判するかつての仲間たちに牙を剥いた。ディオゲネスと同じキニク分派の領袖ペレグリヌスは、オリンピアで催される祝祭のさなか、公衆が見守る中で焼身自殺することを宣言し、それにより哲人として不屈の精神を示そうと目論んだ。ディオゲネスの思想的後継のはずのキニク派であるが、ペレグリヌスの行動には感傷主義と生真面目さが勝ちすぎていて、朗らかなディオゲネスとは似ても似つかない。ルキアノスは、ペレグリヌスの自殺は自派の「名声」を高めることを狙った俗物のパフォーマンスに過ぎないと嘲笑った。どこか、『Kony 2012』や「ゴリラのハランベ」現象を思い出させる構図だ。ただしルキアノスの嘲笑はディオゲネスの奔放な笑いとは異なっており、「朗らかであるには少々甲高過ぎ、崇高よりも憎悪を覗かせている」*30スローターダイクは評する。あまりに逸脱的なディオゲネスとは異なり、守るべき地位や教養があるルキアノスの保守的シニシズムは、競合を蹴落とし、格下を見下す実利的な敵意(イデオロギー)を帯びている。ディオゲネスシニシズムは、半犬人が人間の常識や権威に噛みつく逸脱者のものだったが、ルキアノスシニシズムは洗練された教養人が、がさつな社会の不満分子と反逆者をこき下ろす「上から下へ」のマウンティングなのだ。  

 シニシズムは、近代的「啓蒙」の一形態である*31。皮肉屋が伝統的権威や不当な権力者を笑い飛ばすことは、啓蒙である。だが啓蒙が生み落とした批判精神には本来、「例外」や「特別扱い」はない。あらゆる対象が批判の吟味にかけられる。そして啓蒙主義の理想とタブーに対しても、(「現実主義」の観点からの)不信と嘲りが蔓延するとき、啓蒙は自殺し、シニシズムの土壌からファシズムが生まれてくるのだ……というのがスローターダイクの論点である。この主張への論評は控えるとしても、スローターダイクの論述からネイグルの問題意識とも重なる面を見て取れる。「左派の道徳家や啓蒙主義者の生真面目な振る舞いに、嘲笑を浴びせかけるシニシスト」のイメージからは、匿名掲示板やTwitterの冷ややかな声や、オルタナ右翼のイデオローグであるニック・ランドの『暗黒の啓蒙書』を想起せずにはおれない。他方で、シニシズムとは啓蒙の一スタイルであると指摘し、「シニシズム=悪」と断じて尻尾切りすることの困難さを示唆する点で、スローターダイクは恐らく正しい。頭で考えただけの理想を言うとすれば、シニカルさの節度を守ることが大切なのだろう。

 最後に、オルタナ右翼カウンターカルチャーについて。ネイグルが第二章や第七章で論じたように、カウンターカルチャーが左派に与えた影響は大きい。それが故に、逸脱を好む進歩的左派は、カウンターカルチャーの気風を感じさせるチャン文化に当初は甘かったという。ならば、カウンターカルチャー左派からオルタナ右翼への乗り換え、合流が起こるのだろうか。あるいは既に進行中なのだろうか。カウンターカルチャー気質の人々が、左派の道徳主義に窮屈さや反発を感じる事例が、ちらほら起きているようにも見える。それとも自身のなかのカウンターカルチャー的要素から卒業し、オルタナ右翼と対峙するのだろうか。今後の展開を注意深く見守りたい。

お知らせ

★その1 サイト運営者の一人、青野浩の翻訳書が出ます。

当ブログの青野浩と西村公男氏が共訳した、ヴェルナー・トレスケン(著)『自由の国と感染症 法制度が映すアメリカのイデオロギー』が、みすず書房より12月10日発売されます。

www.msz.co.jp

★その2 友人が最近本を出したので、よろしくお願いします。

オルタナ右翼問題および文化戦争の焦点でもあるポリティカル・コレクトネス、フェミニズム、男性問題。これらについて真摯に論じるベンジャミン・クリッツァー(著)『21世紀の道徳』は、晶文社から12月3日発売。著者は書評・評論サイト『道徳的動物日記』の運営者です。

www.amazon.co.jp

*1:ジョセフ・ヒース, アンドルー・ポター(著) 栗原百代(訳)『反逆の神話 [新版] 反体制はカネになる』早川書房 2021年 25頁

*2:Martin Doyle「『リア充を殺せ!』作者アンジェラ・ネイグルへのQ&A」/THE IRISH TIMES 2017年8月22日 https://www.irishtimes.com/culture/books/a-q-a-with-kill-all-normies-author-angela-nagle-1.3194409

*3:オバマと希望:By Shepard Fairey - Self-made, Fair use, https://en.wikipedia.org/w/index.php?curid=32592376

*4:『KONY 2012 (日本語字幕) 1』 https://www.youtube.com/watch?v=m001LUsXUKU

*5:「この素敵なゴリラが命を落としたのは、男の子の両親が子どもをよく見張っていなかったためです[…]今回の事態は両親の過失が引き起こしたものであり[…]」 請願には2021年12月時点で51万人以上の賛同者を確認できる。/「Justice for Harambe」change.org https://www.change.org/p/cincinnati-zoo-justice-for-harambe

*6:ハランベ事件へのアイロニカルな雰囲気を帯びた日本語の記事として、次のものがある。⇒ 野口耕一「悲劇のゴリラ「ハランベ」ムーブメントが止まらない」 FNMNL 2016.09.01 https://fnmnl.tv/2016/09/01/7817

*7:アノニマスの面々:「2008年2月、ロサンゼルスにて。アノニマスとして公の場に現れた人々。」Wikipediaより引用。/Vincent Diamante - originally posted to Flickr as Anonymous at Scientology in Los Angeles, CC 表示-継承 2.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=3809416による

*8:yomoyomo「邪悪なものが勝利する世界において」/WirelessWire News 2014.10.21 https://wirelesswire.jp/2014/10/20205/

*9: “It's not clear what provoked such a vitriolic response to Sierra.” Dylan Tweney「キャシー・シエラの事件:僅かな手がかり、乏しい証拠、無数の論争」/WIRED 2007年4月16日 https://www.wired.com/2007/04/kathy-sierra-case-few-clues-little-evidence-much-controversy/

*10:CASEY JOHNSTONE「殺害・爆弾テロの予告も。ゲーム開発者や批評家への脅迫続く米国」/WIRED 2014年9月12日 https://wired.jp/2014/09/12/game-developer-fbi/

*11:ベンサムパノプティコンミシェル・フーコーが論じたことで、カウンターカルチャー系左派が敵視する抑圧のシンボルになった。:ジェレミ・ベンサム - The works of Jeremy Bentham vol. IV, 172-3, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=3130497による

*12:By Matt Furie - https://www.latimes.com/politics/la-na-pol-pepe-the-frog-hate-symbol-20161011-snap-htmlstory.html, Fair use, https://en.wikipedia.org/w/index.php?curid=49072067

*13:Michael Calderone,Mary Papenfuss「小児性愛を擁護する発言流出 オルタナ右翼ブライトバート」幹部マイロ・ヤノプルス氏辞任、出版も中止」/ハフポスト 2017年02月23日 https://www.huffingtonpost.jp/2017/02/21/pedophilia_n_14920570.html  

*14: 4chan - Wikipedia

*15:アントニオ・グラムシWikipediaより。写真撮影者不明

*16:アメリカ合衆国南部。ペイリオコンの思想的源流のひとつが南部農本主義だ。/CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1481656

*17:映画『ファイト・クラブ』ポスター。/By http://www.impawards.com/1999/fight_club_ver4.html, Fair use, https://en.wikipedia.org/w/index.php?curid=19641114

*18:雪の結晶。/パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=493269

*19:「セーフ・スペースの暴力」 by ブレンダン・オニール/ 道徳的動物日記 2016年1月30日 https://davitrice.hatenadiary.jp/entry/2016/01/30/144817 

*20:ベンジャミン・クリッツァー「アメリカの大学でなぜ「ポリコレ」が重視されるようになったか、その「世代」的な理由」 / 現代ビジネス 2020年11月28日 https://gendai.ismedia.jp/articles/-/77766?page=4

*21:トロールノルウェーの妖精。なおオンラインゲームやSNSでの迷惑行為を「トロール行為」と言う。:By Theodor Kittelsen - Unknown source, Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=225211

*22:Roosh V -Wikipedia https://en.wikipedia.org/wiki/Roosh_V

*23:Krassotkin - 投稿者自身による作品, CC0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=30819205による

*24:Michael McLaughlin「トランプ支持者の大学での講演、抗議デモの暴徒化で中止に 「言論の自由」との矛盾が浮き彫りに」/ハフポスト 2017年02月02日 

https://www.huffingtonpost.jp/2017/02/02/trump_n_14583856.html

*25:ジョン・ファウルズコレクター』に『黒檀の塔

*26:北田暁大『嗤う日本の「ナショナリズム」』NHKブックス 2005年 205頁

*27:2ちゃんねるから4chanへの影響と、日米匿名掲示板文化におけるネオ右翼思想の隆盛。この点を論じた英語圏のネット記事としては、ブレット藤岡(BRETT FUJIOKA)の「Toxic Internet Culture From East To West」がある。/Noema Magazine 2020年10月22日 https://www.noemamag.com/toxic-internet-culture-from-east-to-west/

*28:ペーター・スローターダイク(著)、高田珠樹(訳)『シニカル理性批判』 ミネルヴァ書房 1996年

*29:同上、169頁。

*30:同上、183頁。

*31:スローターダイクの言葉では「啓蒙された虚偽意識」