リベラルアーツの扉:海外教養書を読む

田楽心&青野浩による読書記録

プラックローズ&リンゼイ 著『特権理論:ポリティカルコレクトネス、アイデンティティポリティクス、フェミニズムはいかなる理論的根拠に基づいているのか』(2020年)/90点

はじめに(評者・田楽心 Den Gakushin)

 「キャンセルカルチャー cancel culture」という言葉が、日本でも知られるようになってきた。ソーシャルメディア上で、有名人や一般人の過去の言動を倫理的に告発して、その社会的地位を失墜させようとする行動のことだ。またアメリカでは「woke(ウォーク/目覚め)」という言葉が流行している。人種問題や性差別などの社会的不正に覚醒することをいみする左派の合言葉だ。

 本書『特権理論』は、「キャンセルカルチャー」「woke」が象徴する、アイデンティティを基盤とした社会現象の背景にある学術的理論を、「社会正義 Social Justice」「セオリー Theory」「応用ポストモダニズム applied postmodernism」などと呼んで、その世界観と問題点を体系的に描き出している。

 著者のプラックローズとリンゼイは、左派の理論的支柱であるポストモダニズムの性格が、時代を経て大きく変化したことが、ラディカルな左派の社会運動が盛り上がる背景にあると主張する。本書のキーコンセプトは、ポストモダニズムを時期的に「ポストモダニズム」「応用ポストモダニズム」「再帰ポストモダニズム」の三段階に区分する見立てである。これらの特徴については後で説明する。

原題

Cynical Theories: How Activist Scholarship Made Everything About Race, Gender, and Identity - and Why This Harms Everybody /2020年8月刊行

この原題を『特権理論』と訳した理由については、注を参照*1

著者について

ヘレン・プラックローズ Helen Pluckrose:リベラル派の政治・文化系ライターであり、スピーカーでもある。左右の寛容と合理的思考を支持するリベラル派の雑誌『Areo Magazine』の元編集長。ポストモダニズム、批判理論、リベラリズム世俗主義フェミニズムに関する多くの人気エッセイの著者でもある。(Twitter:@HPluckrose)

ジェームズ・リンゼイ James Lindsay:物理学出身の数学者で、New Discourses(newdiscourses.com)の創設者。宗教、権威主義、過激主義の心理学に関心がある。エッセイがウォール・ストリート・ジャーナル、ロサンゼルス・タイムズなどに掲載されている。(Twitter:@ConceptualJames)

序論

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 プラックローズとリンゼイは、「序論」で自身の歴史観を披露している。まずこれを確認しよう。

 過去2世紀、ほとんどの西洋諸国では、広義の「リベラリズム」が左派から保守派まで幅広い層に受け入れられたきた。このいみでのリベラリズムの特徴は、政治的民主主義国家権力の制限普遍的人権法の下の平等表現の自由視点の多様性と誠実な議論に価値を見出すこと証拠と理性の尊重政教分離信教の自由等である。これらのリベラルな価値観は、封建制奴隷制ファシズムなどとの数々の戦いを経て、近代に獲得した偉大な成果である。しかし、このような近代における努力と「リベラリズム」は現在、左右両方面から強力な挑戦を受けている。極右は「西欧」の主権と価値観の擁護を、独裁者や強者によるリーダーシップに求める。進歩的左派は、従来型のデモクラシーとは空虚なもので、リベラリズムは抑圧の一形態にすぎないと批判する。進歩的左派はアイデンティティ・ポリティクスを行うことによって、左右対立をますます激化させている。進歩的左派はモダニズムではなく、ポストモダニズムと強く連携してきたことで、無残なことになっている。今や進歩的左派は、理性とリベラリズムから逸脱したがっている。

 プラックローズとリンゼイはこのように総括し、左派の内部における「リベラリズム」と「ポストモダニズム」の対立に目を向ける必要があると指摘する。後者の「ポストモダニズム」は、時期的に三段階の発展を遂げた。このなかで「応用ポストモダニズム」の理論を信奉する進歩的左派はとても不寛容になり、権威主義的なイデオロギーと運動を産み出していると、プラックローズとリンゼイは批判する。

 プラックローズとリンゼイはこうした進歩的左派の運動を「社会正義運動 [Social Justice Movement]」と大文字で呼び、一般的ないみでの社会正義 social justiceとは区別する。ほとんど毎日のように、SNSでは「社会正義」によって「キャンセル」されたり、恥をかかされる人があぶり出される。こうした「目覚めた人々」による制裁は悪人への「当然の報い」であると捉えれば、安心して眠れるだろうか。しかし普遍的な自由と平等を求める人でさえ、何かの弾みで自分がつるし上げられはしないか…と恐れる。人々は言動を自己検閲し制限するようになり、表現の自由は衰退する。最悪の「社会正義」はイジメになるか、権威主義に陥ってしまう。……このようにプラックローズとリンゼイによる「社会正義」批判の核心は、「社会正義」の抑圧的権威主義への抵抗にある。

 先日、ハヤカワ文庫から復刊された、ジョセフ・ヒースとアンドルー・ポターの『反逆の神話』文庫版は、ポストモダニズムの流れを汲む反資本主義の文化左翼は、実際には資本主義を維持し拡大する活動をおこなっているに過ぎない。…にも関わらず、「じぶんは資本主義に反逆している」と勘違いして、自己満足に浸っていると看破した。ところが『反逆の神話』刊行から16年後、2020年に新たに付与された「序文」では、文化左翼にトレンドの大変化が起き、不寛容で権威主義的な運動が新しく隆盛してきたと指摘されている。したがって本書『特権理論』は、『反逆の神話』では語られなかった「権威への反逆から権威主義へ」という左派のトレンド変化に、説明を与えるものと位置付けることができる。

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https://www.amazon.co.jp/dp/4150505802

 しかし、ポストモダニズムについて多少なりとも知っている読者からすれば、ポストモダニズムの特色は「反権威主義」や「差異の肯定」にあると考えるはずだ。それが一体どうして、「キャンセルカルチャー」「社会正義」のような権威主義的な運動を生むことができるというのだろう。辻褄が合わないのではないか。本書『特権理論』は、こうした疑問に十分満足のいく答えを提示している。

第一章 ポストモダニズムーー知識と権力における革命

 これから『特権理論』の内容を、なるべく実際の章立てに沿って再構成しよう。本書は「序論」から「第十章」まで、11本の章立てになっている。

 まず「第一章 ポストモダニズムーー知識と権力における革命」でプラックローズとリンゼイは、ポストモダニズムの特徴として2つの原理と、その原理に基づいた4つのテーマに着目すると宣言する。

〇2つの原理

・知の原理:客観的な知識や真実が得られるという主張についてのラディカルな懐疑と、文化的構築主義へのコミットメント。

・政治の原理:社会は権力とヒエラルキーによってシステム化されており、このシステムによって、ひとびとが何をどのように知ることができるのかは決定される、との信念。

 

上の原理を元に、4つのテーマが導出される。

〇4つのテーマ

1.境界の曖昧さ

2.言語の権力

3.文化相対主義

4.個人と普遍性の喪失

 

プラックローズとリンゼイは、この6つの概念を組み合わせて、ポストモダニズムの理論を分析する。かれらが最も注目するのは、オリジナルのポストモダニズムそのものではない。第一に、オリジナルのポストモダニズムが「改良」されて産まれた現在の派生的理論――応用ポストモダニズムである。第二に、応用ポストモダニズムが主張する世界観が、「真実である」と広く確信されて、社会にある程度浸透したことで生じた、現在の社会状況――再帰ポストモダニズムである。

第二章 ポストモダニズムの応用的転回ーー抑圧を見えるようにすること

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 近代が掲げた理想を否定するペシミスティックな思想として登場したポストモダニズムは、いかにして現在の権威主義的な運動の基盤となったのか。第二章「ポストモダニズムの応用的転回ーー抑圧を見えるようにすること」でプラックローズとリンゼイは、ポストモダニズム理論が変化していった様子を描いている。

 オリジナルのポストモダニズムは、1980年代半ばにもなると賞味期限は尽きていた。人々がもっとダイレクトに「社会正義」を実現する「理論」を欲したためだ。

これと入れ替わるようにして1980年代後半から1990年代前半にかけて、ポストコロニアル理論、クィア理論、批判的人種理論などが、社会的不正義の破壊をモチベーションに台頭した。これらの「応用ポストモダニズム applied postmodernism」の諸理論は、道徳的な性格が強く、敵対者の言論を異端審問する。

 異端審問をどうやるのかと言うと、典型的には人々が書き残したテクストに着目する。その中で、人々の言葉遣いとコミュニケーションが、特定の人種やセクシュアリティへの差別的意味あいを含んでいることを指摘する。またこの差別的意味あいにおいて、「白人」や「男性」などの支配的アイデンティティは優遇されている。したがって白人や男性であることは、社会的「特権」に居座ることであるとされる。このように特定のテクストには、理論家が指摘するまで気付かれなかった、差別的な権力関係が隠れていたことになる。ここから読者に、テクストに現れた政治的な権力関係と「特権」を自覚させ、不正義な権力関係と戦うべきことをうながす。こうしたテクストのことを「言説」と呼ぶ理論家もいる。

 当初は近代を懐疑するだけで道徳的に強いメッセージがなかったポストモダニズムは、こうしてより分かりやすく道徳的になり、人々をアイデンティティの戦いに動員しやすいように改良”された。

(評者補足)応用ポストモダニズムの各理論について

 予告しておくと、第三章「ポストコロニアル理論ーー他者を救うために西洋を解体する」から第七章「障害学と肥満研究ーー支援グループのアイデンティティ理論」までは、応用ポストモダニズムの理論を、具体的に紹介しつつ批判する内容である。

 応用ポストモダニズムの各理論に共通する論理は、まず「西洋」「異性愛」「白人」「男性」「健常者」など、ある社会で優勢な地位にある人々を名指すことからはじまる。応用ポストモダニズム理論によると、これらの人々には“特権”がある。そして特権を維持する力が、先ほど述べた「言説」のネットワークを通して、社会に働いている。また応用ポストモダニズムの世界観そのものは、社会的に構築された偏見などではなく、絶対的真理だと信じられている(=選択的な懐疑主義)。

 次に各々の応用ポストモダニズム理論に特徴的なものの見方と、これらの理論に対するプラックローズとリンゼイによる批判のポイントを、私(楽心)が内容を補足しつつまとめていく。

第三章 ポストコロニアル理論ーー他者を救うために西洋を解体する

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 ポストコロニアル理論によれば、西洋白人男性の書いたもの[言説]は、西洋の覇権を正当化する偏見によって汚染されている。この偏見に対抗するためにポストコロニアル理論が推奨するアプローチは、植民地の人々のローカルな経験や感情を尊重することである。西洋諸国には「理性」や「普遍性」に訴えて、侵略や植民地支配を正当化してきた歴史がある。例えば「理性的な民族が、理性がまだ発達していない民族を支配するのが、お互いにとって正しい在り方だ」というのが侵略者の論理だ。したがって、「理性」や「普遍性」なるものは実際のところ、西洋の精神的・物質的な特権を維持し、西洋的でないものを抑圧するための詭弁の道具に過ぎないものとされる。こうした前提からポストコロニアル理論は、あらゆる言説から西洋の覇権主義を読み取り、これを批判する。

 ポストコロニアルの理論家が推進する「研究の正義 Research Justice acts」という研究方法論は、学術的生産物をその質ではなく、生産者のアイデンティティに基づき評価する。「有色人種の女性である」などの周縁的なアイデンティティを持っていて、なおかつポストコロニアル理論に合致する知識の生産方法や、望ましい結論を主張する人物には、特権的地位を割り当てる。

 皮肉なことにポストコロニアル理論は、世界各地で人権や公共の問題に取り組む人々を、しばしば窮地に追いやる。なぜならポストコロニアルの理論家にとって、「普遍的人権」に訴えることは、西洋中心主義の押し付けでしかないため、ご法度である。例えばサウジアラビアフェミニストパキスタンの世俗的リベラル、ウガンダLGBT権利活動家が、SNS上で英語のハッシュタグを使って女性やLGBTへの人権侵害への抗議に支援を呼びかけた事がある。しかしながらこのとき、応用ポストモダン理論の研究者や、活動家からの反応はほとんど無かった。なぜならかれらは、「抑圧する西洋文明 / 抑圧される東洋文明[または南の世界]」という二項対立に忠実なため、誰をどうやって擁護するべきなのかわからなくなり、身動きが取れなくなったのである。

第四章 クィア理論ーー「普通」からの解放

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 クィア理論は「普通 normal」であることからの解放を目指す。どういうことか。クィア理論によれば、セックスやジェンダーセクシュアリティといった性的「カテゴリー」がもっともらしく存在すること自体が、抑圧的である。例えば「あなたは女の子なのだから、女らしく振舞いなさい」「女の子は女らしく振舞うのが普通なの」という親からのお説教は、上から目線で息苦しい。このとき親は、「女らしさ」という道徳規範を帯びた性的カテゴリーを娘に押し付けている。同じ抑圧は、LGB(ゲイ・レズビアンバイセクシュアル)といった性的なマイノリティであっても起こりうる。こうした抑圧に対して、クィア理論は、カテゴリーの意味を不安定にすることで抵抗する。プラックローズとリンゼイが挙げる事例ではないが、次のようなことだ。昔は男性らしく振舞わない男性や、女性らしく振舞わない女性は人々から「おかま」や「オトコオンナ」という侮蔑を投げかけられて、嘲笑された。ところが現在では、中性的なファッションや振る舞いをする歌手や俳優は「クール」であると、人々に称賛されるようになっている。つまり性的なカテゴリーのネガティブな意味合いは、歴史的に変わるし書き換え可能なものだ。この事例を、クィア的な「抵抗 queering」と解釈することができるだろう。しかしクィア理論の内容は、それだけではない。

 クィア理論は、生物学やリベラリズムの認識に対抗する。性的カテゴリーは人々の振る舞いと言語を通して構築され、ひとは「社会化」するときこの性的カテゴリーを身に着けるとされる。性的カテゴリーは規範性と抑圧性を帯びており、したがって不当な権力を帯びているとされる。仮にどんなに改善された生物学の分類でさえも、それが客観性を装い性的カテゴライズを行う限りは、抑圧的であるとされる。また「男性」「女性」「レズビアン」「ゲイ」といった性的カテゴリーや、「LGBT」といった分類は、それ自体が抑圧だとされ、クィア理論では批判の対象となる。このように、クィア理論ではほとんど「何らかの性的カテゴライズは、何らかの不当な権力による抑圧である」といった、巨大陰謀論的な見方が信じられている。ジュディス・バトラーは抑圧に抵抗するために「支離滅裂になること」を推奨した。クィア理論においては、性的カテゴリーに関する固定観念を揺さぶる支離滅裂さや流動性は、「クィア化 queering」と呼ばれ讃えられる。またクィア理論は、言語とカテゴライズに根本的不信感を抱いているため、「クィア」自体を定義することを避ける。

 20世紀後半に、女性とLGBTの法的・文化的立場は改善した。女性とLGBTの人々は、あらゆる仕事に就くことができ、男性と同じ給与をもらうべきであるとされ、また女性とLGBTへの偏見や差別は許されなくなった。リベラルの史観では、この変化の大部分は、第一に様々なセクシュアリティには生物学的根拠があると分かったこと。第二にリベラルな個人主義の普及によって、「ゲイの人もいる。オーケーかれらはかれら、私は私です」と個人のライフスタイルを尊重し、干渉しない態度が広まったためだった。しかしクィア理論家は、こうした変化を新たな科学的認識や個人主義が産んだ“改善”であるとは認めない。女性とLGBTの法的・文化的立場が変化したのは、「何らかの権力に都合よく『女性』『LGBT』というカテゴライズが行われ、広まったからにすぎない」と考えるためである。

 クィア理論家らは、性的カテゴライズを不安定にすれば、このような改善に見せかけた性的カテゴライズの“支配”から人々を解放できると信じる。このため「規範への反逆」そのものに価値を見出し、「分類の暴力」に抵抗し、支離滅裂さや不可解さ、矛盾を称賛する。また規範的ジェンダーを持つ人々を野暮ったいと見下しがちである。見下された人たちは困惑し、関わり合いにならないでおこうする。またごく「普通」に社会に受け入れられたい大多数のLGBTの人たちは、普通であることを辞めさせようとするクィア理論に親しみを感じるわけでも、支持しているわけでもない。

第五章 批判的人種理論とインターセクショナリティ ーーいたるところにある人種差別を終わらせるために

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 1970年代に誕生した批判的人種理論は、「人種」についての知識は、白人の特権維持のために都合よく作られてきたと主張する。例えばアメリカの人種史について考えてみよう。アメリカにおいて白人も含む人々が、黒人差別を解消するために道徳的な努力をしてきた。……通常はこう考えられている。しかしこのような“進歩”の歴史は、実際にはそうする事が白人の利益になる時のみ行われたという事実を隠し、美化しているにすぎない。創始者のデリック・ベルは、このように断じた。本書の原題の通り「シニカル cynical」な見方である。

 批判的人種理論によると、白人は“本質的に”人種差別的である。なぜなら人種差別とは「偏見+権力」のことであるため、権力のある人種である白人だけが、人種差別主義者になりうるのだ。反対に人種差別についてほんとうに批判的に語れるのは、権力のない人種である有色人種のみである。

 リベラルな批評家は、批判的人種理論は普遍的人権や人種間の連帯よりも、ブラック・ナショナリズムや分離を支持する事が多いため、人種間対立を激化させる、と批判する。

 批判的人種理論によれば、道徳的ないみでの人種差別は減っておらず、すべては白人の利益のための見せかけの“差別解消”行動である。こうした悲観によって、理論は深刻なパラノイアと敵意を産み出している。また疎外された人種グループのメンバーの解釈は“無謬”とされる事も、問題である。

 デリック・ベルの教え子であるキンバリー・クレンショーは、「インターセクショナリティ」概念を提唱した。この概念は、「黒人」と「女性」のように、複数の抑圧されたアイデンティティを持つひとは、独特の差別に晒されることを指摘する。例えば、「黒人男性」と「白人女性」を多く雇用する職場であっても、「黒人女性」は雇用されない。インターセクショナリティを重視するひとは、周縁化された異なるアイデンティティのいずれも尊重しようとする。このため、周縁的アイデンティティの当事者同士が衝突する事件をうまく評価できず、誰を“支援”するべきかのカースト的思考が混乱することがある。

第六章 フェミニズムジェンダー研究ーー洗練された単純化

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 フェミニズムには多様な立場と思想がある。その中でも2000年代初頭には、インターセクショナル・フェミニズムが優勢になった。旧来のフェミニズムが典型的には「白人女性」のもので、有色人種や「LGBTQ」への抑圧に加担している、と告発されたからだ。

 インターセクショナル・フェミニズムなどのポストモダニズムのアプローチから批判されて、リベラル・フェミニズムは衰退した。リベラル・フェミニストは、男女の法的平等、出産の自己決定、社会のあらゆる場所での男女の機会均等が実現されれば、自分たちの仕事はほぼ終わると考える。そして男女において得られる結果の違いが、自動的に差別の存在をいみするとは考えない。このようなリベラル・フェミニズムのスタンスは、白人・男性・異性愛者など支配層の特権と抑圧を隠ぺいするものであるとして、ポストモダンフェミニストから怒りを持って批判された。

 現在主流となったインターセクショナル・フェミニズムによると、人々を抑圧から解放するほんものの知識は、「貧しく黒人で高齢である女性」などの交差するアイデンティティを把握する者だけが、持つことが出来るとされる。

 「インターセクショナリティ」の思考は、抑圧された様々な周縁的“部族”を、「連帯」のかけ声の下にまとめようとする。しかし第一に、この体制においてより特権的な部族のニーズが優先される問題がある。プラックローズとリンゼイが挙げる事例ではないが、例えばアメリカで異性愛者の白人女性は、相対的に言って特権を帯びた強者であるとされる。したがって有色人種でMtFトランスジェンダーの人とニーズが対立した場合、有色人種MtFトランスジェンダーへのケアを優先しなければならなくなってしまう。

 第二の問題として、インターセクショナル・フェミニズムという「統一理論」は、様々な要素を縫い合わせようとするため無理が生じている。例えば白人フェミニストは、「有色人種の女性から文化盗用したり、その抑圧体験を『覗き見』感覚で消費してはならないが、有色人種の女性から経験と声を取り入れるべきだ」という、両立が難しい行動を迫られる。また「経済的な貧困にあえぐ白人男性」などの、周縁的グループ・アイデンティティの網の目から落ちる属性の個人は、無視される。またインターセクショナルな分析から、「白人男性は特権を与えられているから、悔い改めるべきだ」といった単純な結論以上の知識を得るのはむずかしい。

第七章 障害学と肥満研究ーー支援グループのアイデンティティ理論

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 障害学は1980年代に入ると、応用ポストモダニズムの影響を受けるようになった。障害学は様々な形態の障害 disabilityと健常者の能力 abilityとを、等しく社会的構築物であるとみなす。また障害や精神疾患を、疎外されたアイデンティティ・グループの観点から位置づける。具体的に言い換えると、社会制度と文化は健常者を優遇するものに他ならないとされる。トイレも歩道もかつては、健常者のみにとって使いやすいように作られていたことを考えてみよう。既存の社会制度や文化によって「健常者」と見なされた人以外は不利な扱いうけており、文化的社会的に「障害」が産み出されているとされる。これは特定の健常者個人の偏見を超えた、社会システムに根ざす差別である。このように障害学は、健常者優遇の文化と制度が、障碍者というアイデンティティをもつ人々を体系的に差別している、と批判するのである。

 これだけに留まらず、インターセクショナリティの影響を受けた障害学の理論では、「あらゆる差別は繋がっている。このため同性愛差別や、新自由主義の風潮によって、能力が劣るとされる人々へ向けられる社会的蔑視など、ありとあらゆる差別についても、障碍者差別との関係を発見するように努めるべきだ。またこれらの虐げられた人々と連帯する必要がある」というふうに考える。また障害学の理論家は、しばしば障碍者から医学的治療を遠ざけたがる。障碍者が障害という「アイデンティティ」を捨てて「症状を緩和したい」と考えることを、理論家は「健常者の差別的価値観である能力主義を内面化している」と批判する。

 インターセクショナリティの考え方は、障碍者を無数の社会的「特権」との戦いへと埋もれさせることで、課題解決をやたらむずかしくしている。「障害を祝福せよ」との鼓舞に、勇気を貰う障碍者もいるだろう。しかし多くの障碍者はおそらく、障害を緩和することを望んでいる。例えば耳の遠さを祝福するために、補聴器を廃棄するべきだ。近視を祝福するために、眼鏡を廃棄するべきだ。……このようなアイデンティティ・ファーストの考え方には限界があるだろう。

 肥満研究は、人種やセクシュアリティへの偏見に対するポストモダン理論をヒントに、肥満に否定的な痩せている人々の文化を「肥満嫌悪症」であると批判する。障害学のアプローチと同様である。だが肥満とは食べ過ぎの結果であるし、放置すると重大な病気に繋がると、医学者からたびたび警告されている。健康へのリスクという、客観的な事実を無視してはいけない。

第八章 「社会正義」の研究方法と思想、第九章 実践の中の「社会正義」ーー理論はいつも、紙の上では良く見える

 プラックローズとリンゼイによる各応用ポストモダニズム理論への批判は、見てきた通りだ。これら応用ポストモダニズムの理論家には多かれ少なかれ、応用ポストモダニズム理論を受け入れない人を抑圧者と見なす。続く「第八章「社会正義」の研究方法と思想」と「第九章「実践の中の「社会正義」ーー理論はいつも、紙の上では良く見える」」では、この問題に焦点を合わせる。そして応用ポストモダニズム理論の抑圧的世界観が、大学教育や社会において現在広く認められていること、これによってリベラリズムの「言論の自由」が脅かされていることを描写する。

 応用ポストモダニズム理論家が語った世界観が広まり、それが道徳的にも事実認識としても「真実である」と前提された段階のことを、プラックローズとリンゼイは「再帰ポストモダニズム」と呼ぶ。時期的にはオリジナルのポストモダニズム(1965年~1990年頃)と「応用ポストモダニズム」(1990年~2010年頃)に続く、第三段階の状況である。再帰ポストモダニズムについての具体的説明を見てみよう。

 まずは大学教育と、研究業界について。応用ポストモダニズムの理論家は、次のように確信した。個人の意図とは無関係なシステムによって、すべての白人は人種差別主義者であり、すべての男性は性差別主義者である。性とは生物学的なものではなくスペクトラム的に存在し、言語は文字通りの「暴力」となる場合がある。肥満を改善したいとの願いは、差別である。

 学生がこのような「社会正義」の理論家たちの主張を「懐疑」することは、再帰ポストモダニズムが浸透した言論空間では許されない。例えば「男女の賃金格差は差別の証拠である」といった主張に、白人男性である学生が「それは本当でしょうか?」と異議を唱えるとしよう。「社会正義」の理論家からみると、この学生の態度は、女性の経験をないがしろにし、男性特権を維持しようとするものだ。このため「社会正義」の理論家である教師は、このような学生からの反論や検討に時間を割くこと自体が危険であると主張する。

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 批判的教育理論によると、このように「意見の相違」を自由に表明させることは、抑圧的な言説を活性化させるから、危険なのだ。すなわち「自由な討論によって真理を発見する」という、リベラリズム啓蒙主義の原理原則そのものが、差別的態度であるとされる。理論家や周縁化されたアイデンティティ・グループの批判を黙って受け入れられないのは、真実に向き合えない「脆さ fragility」のためだとみなされる。「社会正義」への検討を、「社会正義」の理論家は次のように呼んで抑え込もうとする。例えば「認識論的暴力 epistemic violence」「白人の脆さ white fragility」「意図的な無知 willful ignorance」「白人の無知 white ignoreance」「悪意 pernicious」など。

 「応用ポストモダニズム」の研究者でさえ、ひとたび「教義」に反する見解を公にすれば、大きな非難を浴びてその論文を撤回したり、博士号をはく奪されている。レベッカ・トゥベル Rebecca Tuvelはフェミニスト哲学誌『Hypatia』に、トランスジェンダーとトランスレイシャル(別の人種にアイデンティティを持つこと)の類似性を検討する論文(“In Defense of Transracialism”)を発表して、大きな非難に晒され論文を撤回した。彼女の主張は、「性別を変えるというトランスジェンダーの決断は受け入れられるべきなのだから、人種を変えるトランスレイシャルの決断も受け入れられるべきである」、というクィア的なものである。すぐさまフェイスブックツィッターで、トゥベルへの非難がはじまり、一週間で論文の撤回を求める830人分の署名が集まった。

 批判的人種理論家は、トゥベルは「人種」の社会的意義を軽視し、抑圧された者の経験を踏みにじっていると考えた。この件をプラックローズとリンゼイは詳しく説明していないが、例えば白人男性になりたがっている黒人男性がいるとして、誰かがその願望を祝福するならば、批判的人種理論家は「この黒人男性は、黒人差別のシステムを受け入れ、内面化してしまっており、あなたはそれに加担している」と批判するだろう(障害学のことを思い出そう)。またトゥベルの主張は、「黒人」アイデンティティによる連帯を弱めると危惧されることだろう。

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 次は一般的な社会の実例を取り上げよう。Googleのエンジニアであるジェームズ・ダモアは、「平均的に言って、男女には心理的差異がある」との社内メモを書いてクビになった。黒人俳優のケヴィン・ハートは、ゲイを侮蔑する内容の古いツイートを発掘されたことで、アカデミー賞の司会を辞退。LGBTコミュニティに謝罪した。テニス界のスーパースターであるマルチナ・ナブラチロワは、「トランスの女性がシスの女性とテニスで競うのはフェアではない」と主張したことを非難され、謝罪した。本書には他にも無数の事例が取り上げられている。すべて応用ポストモダニズムを受け入れた活動家によるものだという。

第十章 「社会正義」イデオロギーの代わりとなるものーーアイデンティティ・ポリティクス抜きのリベラリズム

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 プラックローズとリンゼイが「ポストモダニズム」に対し自らが依って立つ「リベラリズム」の見解をぶつけて、思想の違いをはっきりさせているのが、第十章「「社会正義」イデオロギーの代わりとなるものーーアイデンティティ・ポリティクス抜きのリベラリズム」である。十章の内容を要約しよう。

 ポストモダニズムリベラリズムの論理は、ほぼ全面的に対立している。リベラリズムでは、「知識」によって現実を多かれ少なかれ客観的に学ぶことができると考えられている。ポストモダニズムでは、「知識」とはおもに社会的特権を維持するために、マジョリティが自他に言い聞かせる欺瞞的な「物語」である。

 リベラリズムは物事を精確に理解すること、明快な分類を志向する。ポストモダニズムは境界を曖昧にすることを志向する。リベラリズムは個人と普遍的な人間の価値を重んじる。ポストモダニズムでは両方を否定し、集団のアイデンティティを重んじる。

 応用ポストモダニズムである「社会正義」のアプローチでは、白人はレイシスト、男性は性差別主義者、ストレートは同性愛嫌悪であるというように、多数派グループに責任を負わせる。これは、個人を人種、ジェンダーセクシュアリティといったグループ属性で裁くべきではないという、確立されたリベラルな価値観に明らかに反する。J.S.ミルが論じたように、自由で開かれた討論は科学と思想を発展させる。言論の自由は、誤りを訂正するために必要な価値である。

 応用ポストモダニズムにも、重要な問題提起と注意喚起が含まれている。しかし「聞いて信じろ」「黙って聞け」という独断的態度はいただけない。リベラリズムは、こうした問題提起と注意喚起、様々なアクターの声に耳を傾け、公平を心がけて慎重に検討する(場合によっては問題提起を理性的に批判する)。リベラリズムはそうした地道な「進歩」を信じる思想だ。

評価(評者・田楽心)

 著者のプラックローズとリンゼイは、オリジナルのポストモダニズム(1965年~1990年頃)から「応用ポストモダニズム」(1990年~2010年頃)を区別する。そしてオリジナルから「2つの原則と4つのテーマ」を抽出し、これを分析装置に使ってポストコロニアル理論、クィア理論、批判的人種理論、インターセクショナル・フェミニズム、障害研究・肥満研究をつぎつぎと解剖していく。その手さばきは鮮やかで、説得的である。また時期的区別と要素抽出によって、ポストモダニズム支持者による「オリジナルの思想家はそんなことを言っていない」といった反論を回避している。「フーコーデリダではなく、その影響下にある理論を問題にしているのだ」「継承・抽出された要素を論じているのだ」、と応じることができるためだ。この議論の立て方は賢明かつ生産的である。

 日本では「ポストモダニズム」への批判に対し、「リベラルを批判するな」、「左派の弱体化になることはするな」との反応を見かけることがある。その理由は、「ほんらいのリベラル」と「ポストモダニズム」の主張を区別した方がよい場面がある事が、日本ではあまり認知されないためだろう。本書が描くように、ポストモダニズムもまた、積極的に「リベラリズム」を批判しており、両者には論争点がある。このことはもっと周知されてよい。このテーマを詳しく整理・分析したプラックローズとリンゼイの仕事には、賛辞を贈りたい。本書が翻訳されれば、日本でも「元ネタ」「参考書」として重宝されるだろう。

 懸念すべき点を挙げるなら、第一にこの手の「左派」批判は、右寄りの人々やアンチ・リベラル派からも喝采を浴びることだ。マイケル・サンデルカズオ・イシグロによる広義の「リベラル」批判は、日本でそうした形でも受容された。もちろん右派だからアンチ・リベラル派だからと、頭ごなしに拒絶するのは偏狭だ。とはいえそのなかには真正の差別主義やうっぷん晴らし、鏡合わせのような別種のアイデンティティ闘争も混じっている。かれらと自らの位置関係をどのように定め、いかなる理想(徳)を持つべきなのか。本書の好意的読者が受け止めるべき課題である。

 もう一つの懸念。本書の批判は、おもに学術的理論および学者・活動家に向けられたものである。このため生活において偏見や差別を受け、不便を抱えている、具体的なマイノリティあるいはマジョリティの人々の姿や声やニーズはみえない。しかし本来はこうした人々の境遇改善が、第一に重要なはずだろう。「リベラリズムポストモダニズム」という、イデオロギーの知的「空中戦」だけで満足してしまってはいけない。

 プラックローズとリンゼイ自身は、「自由」と「普遍性」、「理性」と「進歩」の側に立つことを、「第十章 「社会正義」イデオロギーの代わりとなるものーーアイデンティティ・ポリティクス抜きのリベラリズム」で雄弁に語っている。私にはこれが理想主義的に感じてしまった。現実のリベラリストがこの理想を体現できているとは到底信じられない。単純にしてあまりに理想的な啓蒙思想への回帰にも見て取れるのである。これが困難であることは、それこそジョセフ・ヒースが『啓蒙思想2.0』で指摘している。例えば第十章ではスティーブン・ピンカーが「啓蒙思想の思想家」として好意的に言及されている。そのピンカーを批判する歴史学者たちによる論文集が、2021年9月に刊行された。“The Darker Angels of Our Nature: Refuting the Pinker Theory of History & Violence (本当の暴力の人類史:スティーブン・ピンカーの歴史・暴力理論を反証する)”と題したこの論文集では、ピンカーが西洋中心主義かつ新自由主義的なバイアスを帯びた歴史観によって、女性や有色人種や元植民地の国々といったマイノリティ抑圧に加担していると、厳しく批判されている。この論文集の著者達の視点は、本書で批判されている『特権理論』の応用ポストモダニストたちのものと似通っており、問題を孕んでいる可能性がある。すなわち周縁的グループ・アイデンティティに立脚した歴史学研究においても、『特権理論』で指摘された数々の問題が生じるのではないか。しかし“The Darker Angels of Our Nature”の歴史学者たちは、科学的手続きを重視している。ピンカーによる歴史史料の扱いはずさんであり、歴史学に土足で踏み込んで、泥をまき散らす舐めた態度をとっているとして、「実証主義者」の怒りをもピンカーに向けているのである。ピンカーは思想的には「啓蒙主義者にしてリベラリスト」かもしれないが、研究者としては上記のような批判を投げかけられている。このように、喧伝と実態のあいだにはギャップがある。

 同様にプラックローズとリンゼイが大義として掲げる「言論の自由」は、ヘイトスピーチフェイクニュースの拡散にも悪用されてしまう。つまり「理性」も「言論の自由」も、その美しいタテマエだけを見ていては、暗い現実を見落としてしまう。だからといって、「自由な討論を許せば『認識論的暴力』を産むのでとにかく制限するべきだ」という「社会正義」理論家の態度はファシズムに他ならない。

 少なくともリベラリズムの理念からはこう言えるだろう。原則的には言論の自由を擁護し、なおかつ問題あるトピックに関して批判的な検討を行うことが大切だ。熟議によって可変するコンセンサスを模索するアプローチである。これは非常に困難ではある。このような自由の価値と、社会的公正について考えていくために、本書は有意義な第一歩となるだろう。

追記:本書の邦訳版が早川書房より出版予定のようです。

*1:本書の原題は、『Cynical Theories: How Activist Scholarship Made Everything About Race, Gender, and Identity - and Why This Harms Everybody』である。プラックローズとリンゼイはポストモダニズムの理論を「Cynical」と形容した。その理由は、第一義にはポストモダニズムが、宗教、近代主義マルクス主義といった、あらゆる「大きな物語」を懐疑したためだ。Cynicalには、「人々の言動が善意や誠意に基づいていると信じようとしない態度」(英辞郎)という意味がある。ポストモダニズムは現実を支える近代的理念を大々的に攻撃し、不信を広めた。ところがそうした「不信の理論」であったはずのポストモダニズムは、時代を経て大きく変化し、絶対的な「社会正義」を掲げる理論になった。プラックローズとリンゼイは明言していないが、ネガティブな「不信の理論」から過激な「正義を確信する理論」への大転換もまた、ポストモダニズムの「皮肉 cynical」な転回と呼べるはずだ。

 このように訳ありの含意を帯びた原題から離れ、私があえて『特権理論』と名付けた理由。それは応用ポストモダニズムが、「白人」「男性」「異性愛者」「健常者」などのマジョリティは「特権 privilege」を帯びているとして、かれらを告発する理論でもあるためだ。なお特権 privilegeという言葉は、本書では非常に頻繁に使用されている。後述するように応用ポストモダニズム理論には、みずからに対する懐疑や検討や反証に対し、「弱者を脅かす危険な振る舞いであり、そのような発言や検討をするべきではない」と反撃するメカニズムを備えている。したがって「特権を批判する理論」は、みずからの特別な地位を自明視するといういみで「特権を帯びた理論」でもある。それは皮肉な事態であるとの考えから、本書のタイトルを『特権理論』と名付けた。